伊達政宗に仕えた 黒脛巾組
伊達政宗に仕えた忍者は、彼らが黒革の脛当てを目印にしていたことから「黒脛巾組(くろはばきぐみ)」と呼ばれた。
政宗が安倍重定に命じて鼠に慣れた者50名を選んで扶持米を与え、柳原戸兵衛と世瀬蔵人という人物を首領にした。
ほとんど史料がないことから架空の可能性もあるとされているが、山形の出羽三山系の「修験者」と伊達家の交流があったことから、忍者集団が形成された可能性がある。
彼らは商人・山伏・行者などに身を紛れて敵の情報を収集し、政宗に伝えていたという。
それぞれの土地に詳しく古くからの土着氏族で武力の強かった者を「組頭」にした。南・安倍対馬、北・清水沢杢兵衛、石巻・佐々木左近、本吉の北方と気仙郡・気仙沼左近、本吉の南方・横山隼人、佐沼・逸物惣右衛門の6人が黒脛巾組の組頭となっていた。
他に「草」という忍者集団がいて、敵城に近い順から「一の草、二の草、三の草」と分けて忍ばせ、そのことを「草に臥す」とし、敵地から外に出る人を一の草で討ち取ることを「草を起こす」と言っていたという。
尼子経久に仕えた 鉢屋衆
尼子経久に仕えた忍者は「鉢屋衆(はちやしゅう)」と呼ばれ、表向きは祭礼や正月に芸を演じる芸能集団であった。
鉢屋衆は元々平将門の乱で将門に加担した「飯母呂(いぼろ)一族」で、将門の死後に全国に散ったのである。
その多くは山陰地方に逃れて鉢屋衆となり、筑波山に逃れた一族は北条家に仕えた風魔一族(乱波)になったという。
文明18年(1486年)京極氏に月山富田城を追放された尼子経久が、鉢屋衆が毎年正月に月山富田城で演芸を披露することを知り、首領の鉢屋弥之三郎に接近して味方につけた。
そして元日の午前三時、鉢屋衆は烏帽子の下に兜を、素襖の下に具足をつけ武器を隠し持って何食わぬ顔で大手門をくぐった。
すでに城内は鉢屋衆の演芸を観覧しようと武士や農民たちが集って大混雑していた。この時に尼子経久の一団も城に入り込み、太鼓の合図で城内各所に放火した。
これに合わせて鉢屋衆は烏帽子を捨てて見物人に襲い掛かり、城内は大混乱となった。
城主を任されていた塩屋掃部介は自害し、尼子経久は月山富田城主に返り咲いた。
この功績で鉢屋弥之三郎は本丸北に鉢屋平という長屋を与えられ、それから「やぐら下組」と呼ばれ尼子家に仕えたという。
毛利元就に仕えた 座頭衆と世鬼一族
中国地方の覇者・毛利元就には「座頭衆(ざとうしゅう)、世鬼一族(せきいちぞく)」という2種類の忍者が仕えていた。
座頭衆はいわゆる琵琶法師と呼ばれる盲目の人たちだったが、角都(かくず)や、勝一(しょういち)という名前の人物が、「盲人だから何もできないだろう」という人間の先入観を利用して敵地の有力者に取り入り、情報収集や離間工作に力を発揮した。
世鬼一族は今川家の末裔とも言われ、元就は25名を世鬼家枝連衆と名付け足軽として禄を支給し、領内6か所に住まわせた。
代表的な世鬼一族の世鬼政時は、300石で召し抱えられた。
世鬼一族は陶晴賢が率いる大内軍に「陶晴賢の重臣・江良房栄は毛利方に寝返る」という嘘の情報を流し、江良房栄を処刑させることに成功し、戦力を大きく低下させて厳島の戦いでの勝利に貢献している。
尼子氏の月山富田城攻めでは、琵琶法師の角都が尼子氏に家臣として侵入し、尼子国久が率いる勇猛軍団の新宮党と尼子家当主の尼子晴久を仲たがいさせることに成功する。
これで尼子晴久が新宮党を誅殺して、尼子氏全体の兵力は弱体化した。
彼らは尼子氏を滅ぼすために大きな貢献をし、毛利元就は中国地方の覇者になったのである。
前田利家に仕えた 加賀忍び(偸組)
加賀100万石の初代・前田利家に仕えたのは、加賀藩の影軍団「加賀忍び」で、首領は四井主馬(よついしゅめ)という人物だった。
四井主馬は前田家の配下になる以前は甲斐の武田家に仕えていたとされているが、詳しいことは定かではない。
分かっていることは加賀藩の侍帳に四井主馬100石と記載されていることである。
利家の死後、家督を継いだ前田利長が、大聖寺城の陥落後に忍者の四井主馬に命じて「城中に入らせ放火させた」という記述が残っている。
つまり、前田利家が伊賀忍者の「偸組(ぬすみくみ)」50人あまりに俸禄を与えて家臣として召し抱え、四井主馬を首領とする利家直属の影軍団「加賀忍び」を作ったのである。
江戸時代初期、加賀藩では伊賀流でも甲賀流でもない地生えの「無拍子流(むびょうしりゅう)」という忍術(柔・棒・剣・鎖玉・筒矢・乳切木・縄・呪術などの総合武術)があった。
二木新十郎政長から8代・勝木多左衛門源頼重までの江戸時代後期まで脈々と受け継がれていたという。
真田昌幸・信繁親子に仕えた 草の者
忍者と言えば「真田十勇士」に登場する「猿飛佐助、霧隠才蔵」などが知られているが、もちろん彼らは創作の架空の存在である。
真田昌幸に仕えた忍者は「草の者」という忍者集団である。
元々信州は山岳信仰の修験道が盛んで、「戸隠流(とがくしりゅう)忍術」や「飯綱の法(いいずなのほう)」という妖術の一種も生まれている土地である。
また、甲賀忍者の望月氏は信州の望月氏の一族であった。
武田家が滅亡すると真田昌幸は独立大名になり、大勢力の大名たち(北条・徳川・上杉・織田・豊臣)に囲まれながらも、ぎりぎりの駆け引きをしながら生き残った。
その情報収集を担当したのが「草の者」と呼ばれる忍者達である。
草の者を束ねたのは、昌幸の家臣・出浦昌相(いでうらまさすけ)で、彼自身も忍術を使って徳川家康を殺そうとしたこともあったという。
徳川の軍勢に2度も勝利した第一次・第二次上田合戦においても、草の者たちが暗躍したことは言うまでもない。
昌幸が関ヶ原の戦い後に九度山に流された時に、家臣たちを引き連れていったことが後の創作物語「真田十勇士」の基になっている。
父・昌幸から「打倒家康」の教えを受けていた次男の真田信繁(幸村)は、大坂冬の陣で真田丸を築き大勝利をしている。
翌年の大坂夏の陣では、家康を切腹寸前まで追い詰めたが、草の者たちが信繁(幸村)の影武者や決死隊として存分な働きをしたと言われている。
おわりに
薩摩の島津には「山潜り(やまくぐり)」という忍び集団が協力していたという。
強い戦国大名たちは、傭兵を生業としていた当時最強の鉄砲軍団・雑賀衆や根来衆たちを金銭や宗教上の理由で味方につけていた。
影の軍団として戦国大名に仕えた忍者集団は他にもいたという。
彼らの働きによって大きな戦や数で劣る戦いに勝つことができたのだから、忍者の持つ力や能力は相当であったことが分かる。
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