武田軍の最高指揮官
山県昌景 やまがた・まさかげ(飯富昌景 おぶ・まさかげ)
[橋本さとし]若きころより信玄を支えた筆頭重臣。川中島合戦では最前線で指揮し、上杉軍と対決。昌景の「赤備え」は武田最強部隊の代名詞。信玄より駿河侵攻を命ぜられ、家康はその強さに恐怖を感じる。
※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより
戦国時代「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄(演:阿部寛)の片腕として武勇を奮い、その精強さを天下に轟かせた山県昌景(演:橋本さとし)。彼が率いる「赤備え」は武田の代名詞として諸大名を震撼せしめます。
さて、理想的な武士として知られた山県昌景が嗜みとして日ごろ心がけ、また武田家中の者たちにも説いた「武芸四門(ぶげいしもん)」。果たしてその四つが何なのか、今回は『名将言行録』を読んでいきましょう。
弓・鉄砲・兵法・馬
昌景曰く、武芸四門とは、弓、鉄砲、兵法、馬、是の四つなり。侍は大小によらず、右四つを善くも悪くも習ひ、其上自余のことを稽古致さば、物を読習ひ、同く書習ふこと、肝要にて候。其後乱舞も尤なり。然らば右四つの中に、先づ初めに習はんことは馬なり、二に兵法、三に弓、四に鉄砲と申て、馬を最前に習ふは、馬と申もの、軍場にて何にたる大身も、代りを立て人を頼みて乗らぬなり。偖又兵法は、切合の時、代りの成らぬ業なるは源頼朝さへ、曾我時致の夜討の時、長刀を執て出られたり。三番に弓は侍の家のものなり、子細は国持の武道に手柄せしは覚えの人、誉れの人と言はず、弓箭を能く執ると申せり。然かも弓の儀は、古来より武士の家に副ふ物にて、之を譬ば古き系図の侍の如し。仕出の侍は、鉄砲の如くならん、鉄砲は猛烈なるものと雖も、魔物の恐怖すること少し。弓は又鉄砲程烈敷なしと雖も、狐に付かるヽ者、又は一切の不審物怪には、弓にて鳴弦の行ある上は、武士の奥意は、是以て足軽大将より下の人の為すべき業なり。偖又兵法の義習はずとも、度々切合に利を得る人あれば、兵法稽古なくとても苦しからず。然りと雖も、百人に九十人は、人を狙ふか、人に狙はるヽかあれば、必ず兵法に志すものなり。何ぞありて、其時志すは遠慮なく武士道不心掛と言べし、只何事なき以前に、兵法を学べば、一段心掛の侍なりと。
※『名将言行録』巻之九〇山縣昌景
昌景は言いました。「武芸四門とは弓・鉄砲・兵法(ここでは剣術の意)・馬の四つである。武士たる者、身分の貴賤を問わず、得意不得意にかかわらずこれらを学ぶべし。また読み書きも大事である。これらの基本を押さえた上で、乱舞など嗜むのも結構である」と。
とかく人間は楽しいことをしたいもので、武芸や基礎教養を修めるより、乱舞や芸能といった娯楽に走りがち。そんな心情は戦国乱世の武士たちも同じだったようで、昌景はこれを戒めたのでした。
さて、武芸四門を学ぶべきことは分かりました。では優先順位があるのでしょうか。昌景によると、武芸四門の優先順位は(1)馬(2)兵法(3)弓(4)鉄砲とのこと。して、その意(こころ)は?
戦場において、どんな偉い者でも馬には自分で乗らねばなりません。馬に乗れねば足がないにも等しく、攻めるも逃げるもままならないからです。
また追い詰められた時、最後に我が身を守るのは自分以外にいません。かの征夷大将軍・源頼朝(みなもとの よりとも)ですら、曾我時致(そが ときむね)の夜討ちを受けた時は自ら薙刀をとって戦いました。
そして弓は、古来「弓馬の者」と言うように武士の基礎教養。鉄砲ほど威力はないけれど、狐憑きや物怪を祓う時には鳴弦(めいげん。弓の弦を鳴らす儀式)を行うなど霊力を持っているため、心得ておくべきものです。
ところで兵法について心得がなくても、実戦ではめっぽう強い者がいます。そういう者は無理に兵法の型にはまらなくて結構。戦場では敵を倒して生き延びてナンボですから。
しかしそうは言っても、やはり殺し殺されの戦場を意識すれば、大抵の者は兵法を心がけようと思うもの。いざ窮地に陥って、初めて「兵法を学んでおけばよかった」などと思うのは不覚者と言わざるを得ません。
何事もない平時から武芸に励んでこそ、人一倍抜きんでることができるでしょう。
武芸四門まとめ
一、武芸四門とは馬・兵法・弓・鉄砲の四つ。
一、馬は武士の足であり、乗れねば戦場で生き残れない。
一、兵法は自分を守る最後の手段。
一、弓は武士の基礎教養であり霊的に自分を守る術でもある。
(一、鉄砲の威力=学ぶ必要性についてはことさら語るまでもない)
一、我流で強い者は無理して型にはまる必要はない。
一、武芸四門のほか、読み書きもきちんと覚えるべし。
一、以上(武芸四門+読み書き)すべてを押さえてから、乱舞など芸能も楽しめばよい。
以上『名将言行録』より、山県昌景の教えを紹介しました。自分の意思で動き、自分の意思で身を守り、悪霊を追い祓う。
一方で鉄砲の威力もしっかりと理解し、読み書きによって理論立った考え方や円滑な意思伝達を図るなど、一個の武士として一軍の将として必要な資質の研鑽を重ねた昌景。
当たり前のように思えますが、その基本を愚直に実践するのはなかなか難しいからこそ昌景は名将となったのでした。
初め飯富源四郎と称し、後山縣氏を冒し、三郎兵衛尉と改む。江尻城に住し、四万石を領す。武田家四臣の一人なり。天正三年五月二十一日戦死。
【意訳】元は飯富源四郎(いひとみ げんしろう。読み原文ママ)と称していたが、後に山県の家督を襲名。三郎兵衛尉(さぶろうひょうゑのじょう)と改めた。
駿河国江尻城(静岡県静岡市)の主として4万石を治め、武田四天王の一人として活躍。天正3年(1575年)5月21日、長篠の合戦で討死する。※『名将言行録』巻之九〇山縣昌景
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」ではどんな活躍を魅せてくれるのか、橋本さとしの熱演に注目です。
※参考文献:
- 岡谷繁実『名将言行録 (一)』岩波文庫、1943年9月
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