戦国時代

赤備えを用いた戦国武将たち 「異常に強かった恐怖の軍団」

赤備えを用いた戦国武将たち

画像 : 小十人が用いた具足 public domain

赤備えとは、甲冑や旗指物などを赤や朱色で統一した、戦国時代から江戸時代にかけての軍団の編成のことを言います。

見栄えの良さもさることながら、赤色が発する迫力や威圧感から多くの武将たちに恐れられる軍団でした。

今回はそんな赤備えについて取り上げていきたいと思います。

赤備え【武田家】

赤備えを用いた戦国武将たち

画像 : 甲越勇將傳武田家廾四將 :飫富兵部少輔虎昌

赤備えと言えば武田家をイメージする人も多いかもしれませんが、武田軍団の中で最初に赤備えを取り入れたとされるのは武田信玄の家臣である飯富虎昌(おぶ とらまさ)です。

虎昌は「甲山の猛虎」と呼ばれた猛将で、赤備えの騎馬部隊を率いて戦いました。

しかし、武田信玄の嫡男・義信が起こした謀反(義信事件)により、守り役を務めていた虎昌が切腹をすることになります。

武田家の戦略などが書かれた軍学書『甲陽軍艦』によると、その際、虎昌の弟とも甥ともされる昌景が信玄に知らせたと記されていて、その功績により昌景が虎昌の赤備えを引き継いだとされています。

また、姓も飯富姓から山県姓に改姓し、山県昌景と名乗るようになりました。

昌景は武田四天王にも数えられる、武田家家中でも有能な武将で、赤備えは相手武将を大いに震え上がらせました。

なお、『甲陽軍艦』には、小幡信貞浅利信種も同じく赤備えとして武田軍団に組み入れられていたと記されています。

赤備えは、最強と謳われるる武田軍団の代名詞となりました。

赤備え【井伊家】

赤備えを用いた戦国武将たち

画像 : 『関ヶ原合戦屏風』に描かれた井伊勢。ただし赤い母衣を背負った武者は使番であって井伊の赤備えの一員ではない。wiki c Snlf1

織田信長によって武田家は滅亡させられますが、直後に本能寺の変が起きて織田家は混乱状態に陥ってしまいます。

そのため旧武田領は空白地となり、北条家、徳川家、上杉家を中心に激しい領土争いが繰り広げられます。

そして、甲斐国を抑えた徳川家康のもとに多くの武田家の旧臣が取り込まれることになり、山県昌景の旧臣は井伊直政の軍に配属されました。
そのため、昌景の赤備えも同時に直政に引き継がれることになりました。

直政は小牧・長久手の戦いにおいて、この赤備えで獅子奮迅の活躍を見せつけ、その強さから「井伊の赤鬼」と呼ばれ、恐れられる存在になります。

その後も、赤備えの直政部隊は、北条氏の小田原城攻め関ヶ原の戦いにも参戦し、大いに活躍したことで、赤備えの恐ろしさを世に広めていきました。

また、直政は戦場では大将として後ろで指揮を執るわけではなく、単身で相手の陣に攻め入ったと言われています。
赤い甲冑を纏った武将が敵陣で暴れていれば、とても目立ったことでしょう。

なお、井伊家が治める彦根藩は、幕末までこの赤備えを部隊の装備に採用し続けています。
しかし、1866年に起きた第二次長州征伐では、長州藩のミニエー銃の前に惨敗を喫してしまいます。

残念ながら、戦国時代のような赤備えの威力を発揮することはできませんでした。

赤備え【真田家】

画像 : 『大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)』に描かれた真田勢。

1615年の大坂夏の陣において、豊臣方についた真田信繁(幸村)は、赤備えを用いた軍勢で徳川方と戦いました。
元々真田家は、信繁の祖父・幸隆の代から武田家に仕えており、赤備えのルーツは武田家にあったと言えるでしょう。

また、脇立に大きな鹿の角、前立に真田家の旗印の六文銭をつけた真っ赤な兜は、真田信繁が父の昌幸から受け継いだものです。

画像 : 上田城観光協会の真田三代の甲冑。撮影 : 草の実堂編集部

そんな赤備えの軍団は、大坂夏の陣の天王寺口の戦いにて、徳川方に対して決死の突撃を繰り返しました。

圧倒的な兵力差はありましたが、決死の覚悟を見せる信繁隊によって、徳川家康の本陣は切り崩されていき、ついには馬印まで倒されてしまいました。
家康の馬印が倒されたのは武田信玄と戦った三方ヶ原の戦い以来、二回目の出来事でした。

この時、家康は二度も自害を覚悟したと言われています。

しかし、あと一歩のところで信繁隊は力尽き、信繁は天王寺付近にある安居神社で疲れた体を休めていたところを越前松平家の西尾宗次に見つかり、討ち取られてしまいました。

初代薩摩藩主の島津忠恒は、その勇猛な戦いぶりから信繁のことを「日本一の兵(つわもの)」と評したと、『薩摩旧記雑』には書かれています。

おわりに

赤備えは武田家が一躍有名にし、その後は井伊直政や真田信繁が引き継いでいきましたが、どの軍団も屈強で敵から恐れられる存在でした。

大将の真っ赤な甲冑を見かけただけでも、きっと敵方は震え上がったことでしょう。

しかしながら、一方で真っ赤な甲冑は目立ちやすいという一面もあります。
大将首を狙う武将や鉄砲隊の絶好の標的となったことでしょう。
それでも彼らは、そんなことはものともせず赤い甲冑を身に付け、赤備えの軍団を率いて戦いました。

その雄姿は後世まで語り継がれています。

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2023年 3月 08日 9:30pm

    大河ドラマ真田丸を見ていました。幸村役の堺雅人さんが鎧の赤備えに「もっと赤くしろ!」と言って真っ赤にしたシーンはこのためだったのですね!びっくりです。凄いですね、確かに赤は目立つのに最強軍団だぞ!と相手を震え上がらしたかったのですね、ためになりました。ありがとうございます。

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  2. アバター
    • 名無しさん
    • 2023年 3月 08日 11:22pm

    面白かった、誰が書いたかはいいではないすか?ライターは契約しているのだからいいのでは?でも面白かった。
    後は編集部とrapportsさんの契約の問題でしょう?剣豪おじさんうざいわ!

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