今回は、日本の戦国武将の中で「最強」という呼び声も高い上杉謙信の生涯戦績について触れていきたい。
上杉謙信は生涯で2敗しかしたことがないとされ、「43勝2敗25分」という圧倒的な数字であるが、そうなるとこの「2敗」が逆に気になるところである。
今回は、この「2敗」について掘り下げていきたい。
上杉謙信が誰に負けたのか?何の戦で負けたのか?
まず、この毘沙門天の化身がどこで負けたのかを探ってみるとしよう。
ライバルである武田信玄は、『砥石崩れ』という有名な負け戦があるが、謙信の負け戦はそれほど有名ではない。
明確に負けと定義された戦は、以下となっている。
○生野山の戦い
戦があった年:1561年
主な相手武将:北条氏康
戦の種類:野戦・対陣戦の可能性が高い○臼井城攻略戦
戦があった年:1566年
主な相手武将:原胤貞(はら たねさだ)
戦の種類:攻城戦
1561年頃の上杉謙信といえば、関東管領・上杉憲政の関東帰城の大義名分を掲げて遠征しているタイミングであり、北条方の諸城を攻略しまくっていた時期だ。
それでは、一つずつ掘り下げていく。
上杉謙信の負け戦① 生野山の戦い
謙信が最初に明確に敗れたとされるのが、この『生野山の戦い(なまのやまのたたかい)』だ。
戦があった年は1561年で、謙信はこの年の8月に第四次川中島の戦いで、信玄とも戦っている。
生野山の戦いの相手は、「相模の獅子」と呼ばれた北条氏康であり、武蔵国北部にて戦となった。
しかし、この戦は謎が多く詳細が全くわからない。
そのため、戦の種類は野戦・対陣戦と前述したが、あくまで憶測となる。
合戦を伝える史料『小幡氏文書』には『氏康の兵が越国衆を追い崩した』との記述が残っているが、どのように勝ったのかといった明確な記述はないのである。
上杉謙信 vs 北条氏康という有名な戦国大名同士の戦だったにも関わらず史料が少ないことから、そもそも派手な戦ではなく、ちょっとした小競り合い程度、またはゲリラ的な小規模な戦いだったことも考えられる。
とはいえ謙信は小規模な戦は好まなかった上に、謙信自身が指揮をとったかどうかも不明である。
つまり、上杉軍が敗北したことは確かなようだが、小規模だった可能性が高い上に謙信の負け戦とも言い切れず、なんだかもやっとしているのである。
謙信の負け戦としてさほど有名にならないのは、こういった理由であろう。
上杉謙信の負け戦② 臼井城攻略戦
臼井城攻略戦は、1566年に上杉謙信の関東遠征の一環で行われた戦である。
敵の主立った武将は、北条氏に与する千葉氏家臣・原胤貞(はら たねさだ)であり、臼井城での攻城戦となった。
二次資料の『相州兵乱記』などでは、この戦は原胤貞の軍師である白井入道浄三の戦術や、赤鬼と呼ばれた松田康郷の奮戦により、上杉勢は数千人の死傷者が出たとされている。
その結果、上杉方の里見氏・酒井氏の陣ががら空きになるほどの損害が出て敗北、この敗北で関東の豪族らが次々と北条氏に寝返ることになり、謙信の関東遠征は泥沼化していった。
一次史料、またはそれに準ずる『諸州古文書』では、北条氏政が武田信玄に『敵五千余手負死人仕出、翌日敗北』と伝えていることから、上杉勢に大打撃を与えたことは確かなようである。(『諸州古文書』は江戸時代に青木昆陽が重要とされた古文書を模写して国別に編集した古文書集)
しかし、負傷させた相手は謙信の部隊ではなく、安房の里見義弘と上総の酒井胤治の軍なのだ。
さらに、白井入道浄三と松田康郷の活躍で大打撃を与えたといった記述も見つからないようだ。
そして肝心の謙信は小田原を主戦場にしており、この時は臼井城に関わっておらず関東大連合軍と別の場所で戦をしていた可能性が高いのである。
つまり、臼井城攻略戦で敗北したのは上杉側についた現地の武将たちであって、「謙信が指揮をして負けた戦ではない」という見方ができてしまう。
こちらも先の戦と同様に、謙信が指揮を執って負けたかと言われると微妙となるのだ。
つまり、謙信は自身が直接指揮した戦においては、引き分けはあれども不敗だったのではないだろうか。
参考 : 『相州兵乱記』『諸州古文書』
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