立花道雪とは
立花道雪(たちばなどうせつ)とは、九州の戦国大名・大友宗麟の片腕・軍師として戸次鑑連(べっきあきつら)の名でも知られる、生涯37戦無敗の武将である。
雷を斬って下半身不随になったという伝説があり、輿に乗って戦場を駆け巡ったために「雷神」と呼ばれ、武田信玄が対面を希望したという逸話もある。
加藤清正をひるませた女武将・立花誾千代の父でもあり、中国地方の覇者・毛利元就の九州進出を防ぎ、大友家の最盛期を支えた人物である。
今回は主君・大友宗麟の「女遊び」をやめさせた立花道雪の「天岩戸作戦」について解説する。
大友宗麟の女遊び
大友宗麟は、立花道雪らの協力によって家督を継ぎ、博多港の海外貿易で莫大な富と権力を掌握し、九州地方6か国を支配した戦国大名である。
宗麟は「女好き」として有名で、しばしば無能大名扱いされることもあるが、島津氏との耳川の戦いに敗れるまでは、大友家の最盛期を築いた大名であった。
そんな宗麟の女性遍歴は、結婚歴3回である。
最初の結婚は一色義清の娘との政略結婚だったが、婚姻期間は短く、すぐに離縁となった。
2回目の相手は奈多八幡宮の大宮司の娘で、婚姻期間は一番長かったが、後に宗麟がキリシタン大名になったため、宗教上の問題で破綻した。
3回目の結婚の相手は侍女頭の女性・一萬田夫人だが、その他に7人の側室がいたという。
この3回の結婚生活も穏やかなものではなかった。
その原因は、宗麟の激しすぎる「女遊び」であった。
2回目の結婚相手とは約30年近く連れ添ったが、領国の支配が安定すると宗麟の興味は次第に「女遊び」へと移っていった。
しかも宗麟の「女遊び」は火遊び程度の類いではなく、何と「国難」レベルとも言えるものであった。
『大友記』には以下のように記されている。
「宗麟は国中を訪ね、廿(はたち)前後の女(むすめ)、踊り子を召し出さる事限りなし。いかなる野人にても。色良き女を差し上げ候へば、御機嫌能(よく)御前に召し出され、財宝を与えるぞ、都より楽の役者を召され酒宴乱舞、詩歌、管弦にて日を送り、ひとへに好色に傾き給ひけり」『大友記』
なんと宗麟は「良き女性を宗麟のもとに送れば財宝をやる」とオープンに募集し、しかもそれを国中で大規模に行ったのである。
当然、妻である奈多八幡宮の大宮司の娘はかなりのストレスを感じ、毎日のように酒宴に明け暮れる夫に、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
大宮司の娘である奈多夫人は、神仏に頼り、国中の神宮・僧侶・山伏を集めさせて、日夜祈りを捧げさせたのである。
浮気夫を呪い殺したかったのか浮気封じなのか本心は不明だが、好色な夫の「女遊び」をやめさせるために、大掛かりな神頼みで夫の煩悩を封じ込めようという策に出たのである。
天岩戸作戦
しかし、宗麟の一番の重臣・立花道雪は、この神頼み作戦では効果がないと考えていた。
このまま事態を放置すれば国が衰退してしまうと思った道雪は、早急に主君・宗麟に会おうとしたが、登城して諫言しようとしても宗麟は会ってもくれなかった。
『名将言行録』によると宗麟は
「いつとなく酒にうつつをぬかし、女色に耽るようになり、昼となく夜となく女たちのいる奥にばかりいて、少しも表の侍所には出なかった。老臣の連中が何度登城しても会おうとしない。そして別に忠勤を励んでいるでもない者に賞を与え、科(とが)のない者を罰したりすることも少なくなかった」 『名将言行録』
とある。
大名である宗麟が、表の侍所に顔を出さないで奥の女のもとに入りびたり、老臣が何度登城しても会おうともしない。
しかも家臣を正当に評価しなくなり、賞罰がいい加減になることも少なくなかったという。
大名のこの態度は、ある意味「国難」である。そこで道雪は考え、ある作戦を思いついた。
それが「天岩戸作戦」であった。
道雪自らが芝居を打ち、宗麟の「女遊び」を真似て踊り子を集めて毎夜踊らせ、それを道雪が酒宴を開いて見物しているという情報を流したのである。この噂につられて宗麟を誘い出そうとしたのだ。
案の定、宗麟はこれに素早く反応し、こう言ったという。
「道雪は元々月見・花見・酒宴・乱舞など非常に嫌いであったはずなのに、踊りが好きだというのはおかしい」
さすがは主君、家臣の性格や行動を分かっている。
さらに宗麟は続けて
「おそらくわしへの馳走のつもりであろうから、一つ見物してやろう」
と、道雪が女人を差し出すと完全に勘違いをしたのだ。
こうして、道雪の誘い出し作戦は見事に成功し、宗麟はいそいそと出かけて行ったのだった。
しかし、道雪はすぐに諫言を言ったわけではなく、まずは女人を3回も踊らせた。
さらに道雪は、宗麟に四方山話をして心をほぐし、宗麟の心の壁を取っ払う。
頃合いが良くなってきたところで、ついに道雪は「恐れ多いことではございますが」と話を切り出したが、最初から説教などはしなかった。
これまでの宗麟の実績を褒めて褒めて褒めまくった後に、最後に泣き落としという手に出たのである。
こうして宗麟は、ついに道雪の諫言を素直に受け止めたのだ。
その翌日に宗麟は対面にて儀式を行い、通常通りの公務を行なったという。
おわりに
この逸話から、立花道雪は敏感に人の心を読み解き、空気を読んで忍耐強く待ち、機を見て行動できる人物だったことがわかる。
自身が率いた戦においては生涯37戦無敗、あの毛利軍をも打ち破った輝かしい戦績は、こうした道雪の人間力から生まれたものだろう。
参考 : 『名将言行録』『大友記』
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殿様の中には大友宗麟みたいな女好きの大名は多数いたと思います。毎日のように命のやり取りをしていた人は女性に癒しを求めるのは現代に生きる我々でも男性の私は理解ができる。
しかし、政務をおろそかにして国難とレベルとなれば、一番の近臣の立花道雪しか言えなかったのだろう?
以前これと同じような記事で信長の女遊びを諫めた柴田勝家もrapportsさんでしたね?
歴史好きな私が知らないし、当然ドラマにもならない秘め事に目を向けたrapportsさんありがとう。
これからもこんな面白い記事を期待しています。
すいません、「天の岩戸」ってなんですか?
簡単に言うと天の岩戸は日本神話に出てくる岩の洞窟で、太陽神である天照大御神が怒って天の岩戸に隠れたので世界は暗闇に包まれてしまった。そこで神々が相談して女性の神が胸や陰部をさらけ出して洞窟の前で踊り、神々が笑うと何をしているのか?と天照大御神が扉を少し開けたので、怪力の神が洞窟から引っ張り出し、世界は暗闇から脱出した。
男性を騙すために女性を使う作戦のことを「天の岩戸」というようになりました。