戦国時代には、宗教に関連するトラブルや逸話も数多く存在している。
その中でも特に注目されるのがキリシタンだ。
今回はキリシタンになった武将に焦点を当て、戦国時代においてどれほどの武将がキリシタンに改宗したのかを探っていきたい。
キリシタン武将は、驚愕の100人超え!
まず、キリシタン武将は何人くらいいたのだろうか?
なんと確認できるだけでも100人は優に超えており、史料に残っていない者も含めればその数倍は存在していたかもしれない。
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に上陸したのが1549年の事であるが、そこからキリシタンは九州を起点に徐々に日本各地に広まっていった。
1605年頃には、日本国内で信者が約20万~50万人近くはいたとされる。
当時の日本の人口が約1200万人であったことを考えると、キリスト教に帰依した武将や大名が100人を超えるのも納得である。
キリシタン女性として有名な細川ガラシャや京極マリアといった当時の姫、女性たちも加えたら100人どころの話ではないだろう。
全て記載するとあまりにも多すぎるので、代表的な人物を何人か抜き取って紹介しよう。
・大友宗麟:代表的なキリシタン大名の一人。洗礼名はドン・フランシスコ。九州北部を支配する豊後の大大名であり、キリシタン大名になったことで南蛮貿易を通し領内を栄えさせる。しかし、キリスト教へ極端に傾倒していった宗麟に対して反感を抱いた多くの大友家臣団が離反を招く事態へと発展したため、大友家は衰退の一途を辿ることとなる。
・大村純忠:日本最初のキリシタン大名。イエズス会宣教師を積極的に保護し、長崎港を大きく発展させた。甥の有馬晴信もキリシタン大名であり、大友宗麟と共に天正遣欧少年使節団をローマへ派遣している。
・織田長益:信長の弟の一人で利休七哲の一人。織田有楽斎としての名が有名。キリシタンであったとされるが、確証はなく長益が建てた茶室「如庵」は洗礼名であるジョアンから名付けられたのではないかと憶測されている。
・織田信秀:信長の六男。信長の父親である織田信秀とは別人。生没年は不詳であり生母もよく分かっていないが、信長の子息の中唯一キリスト教に帰依したとされている。1587年の豊臣秀吉による九州征伐が行われた際には、象牙のロザリオを首にかけて出陣したという。
・織田秀信:織田信忠の嫡男で信長の嫡孫。幼名は三法師。「生まれもって位が高く、大きな期待がかけられる」とルイス・フロイスの年報にも報告されている。居城である岐阜城に積極的に教会、司祭館を築いており、家臣も大勢がキリスト教信者であったという。関ヶ原合戦では西軍に付き、戦後改易された。
・織田秀則:信忠の次男で信長の孫。織田秀信の異母弟。兄と共にキリスト教に入信しており、フロイスからは「その品格はドイツの貴族のよう」と評されている。兄秀信が改易後、豊臣家に使えるが、豊臣家が滅亡すると剃髪し京都に隠棲した。
・高山右近:代表的なキリシタン大名であり多くの武将や大名を勧誘した人物。蒲生氏郷と同じく利休七哲の一人。秀吉によるバテレン追放令が発せられると、前田利家の下で客将となる。その後、徳川家康によるキリシタン国外追放令によりマニラに追放されて死去。スペイン総督の命によりマニラでは10日間に及ぶ葬儀が執り行われた。
・蒲生氏郷:高山右近から勧誘された結果キリシタン大名になった人物。利休七哲の一人。初めはキリスト教に無関心であったが高山右近と共にキリスト教の教えを聞きに行った際、その教えに感激し入信。新領地である会津で布教を広げる。宣教師オルガンティノはローマ教皇に「氏郷は傑出した武将である」と報告している。
・黒田官兵衛(如水):秀吉の参謀として有名だが実はキリシタン大名でもあり、洗礼名はドン・シメオン。蒲生氏郷と高山右近の勧めを受けて洗礼を受ける。秀吉がバテレン追放令を出した際は一時棄教するが、領地におけるキリスト教の保護は続けていたとされる。官兵衛の死から2年後、博多の宣教師たちは盛大な追悼ミサを行っている。
・小西行長:高山右近から勧誘されキリシタン大名になった人物で、日蓮宗を重んじる加藤清正とは犬猿の仲。関ヶ原合戦での敗北後、自殺を禁じられたキリシタンだったために切腹を拒否して斬首される。ローマ教皇クレメンス8世はその死を嘆いたという。
・毛利秀包:毛利元就の9男であり、異母兄の小早川隆景の養子となる。大友宗麟の娘を妻にしたことでキリシタン大名になった。居城の久留米城下に多くのキリスト教信者を得たが、関ヶ原合戦後に改易。翌年35歳にて病死する。
・明石全登:宇喜多家重臣で家中最大の10万石を誇る。宇喜多詮家(坂崎直盛)の誘いを受けて洗礼を受けたと言われる。関ヶ原合戦の合戦で主家が滅亡後、大坂の陣で豊臣方として参戦し奮戦する。その後、戦死したと言われるが南蛮に落ち延びたとの説もあり、謎が多く残る。
なぜキリシタン武将が増えたのか?
理由その① 南蛮貿易のメリットが大きかった
キリシタン武将が増えた最大の理由は、南蛮貿易のあまりにもメリットが大きすぎたからだ。
南蛮貿易をする理由は様々だが、中でも一番大きかったのが日本では入手困難な火薬の材料である硝石が入手できたことだろう。
硝石は日本国内では産出されなかったため海外からの輸入に頼るしかなく、鉄砲の弾丸の原料である鉛も東日本が主な産出国であったため、多くは輸入に頼らざるを得なかった。
そういった武器、弾薬を含めてヨーロッパの物を比較的安く購入できるのなら、キリシタンになるという者が数多くいたのだ。
理由その② 慈善活動によって徐々に広まったから
戦国時代には様々な宗教が乱立し、石山本願寺や比叡山延暦寺などは自前の武力を持って大きな勢力になっていた。
権力に介入する既存宗教に幻滅、悩まされた者たちにとって、宣教師たちが行っている慈善活動の方が魅力的に映った者も多かっただろう。また、宣教師たちも日本人にキリスト教が受け入れられるように、積極的に慈善・啓蒙活動を行っていたことが記録から見られる。
実際に、イエズス会宣教師らは布教の傍らで学校・病院・孤児院・教会などを建築し、その地域の発展に大きく寄与していた。その献身的な姿を見た者たちは感銘を受けてキリシタンになっていったのである。
理由その③ 織田信長がキリスト教を保護したから
織田信長が、キリスト教を保護したことも大きな要因だろう。
合理主義者の信長が、キリスト教を受け入れるメリットに気がつき保護したことで、多くの人物がこぞってキリスト教を認めたのである。
ただし、これには信長特有の理由があった。
信長は当時、仏教を笠に武装し、富を蓄え多くの城や土地を持ち、権勢を振るっていた仏教勢力を毛嫌いしていた。
信長の『天下布武』には、仏教勢力による武力行使の排除も含まれており、これに対抗すべくキリスト教保護を最大限まで活用したと考えられる。
※信長と宣教師ルイス・フロイスの関係については、以下が詳しい
織田信長はどんな性格と外見をしていたのか? 「実際に信長に会ったフロイスの記述」
https://kusanomido.com/study/history/japan/azuchi/58951/
理由その④ キリスト教の教えに感動したから
シンプルに、キリスト教の教えに感動したという例もある。
その筆頭が高山右近であり、彼はキリスト教に深く感銘を受け、多くの大名や武将をキリスト教に勧誘している。
右近がキリシタンとなったのは11歳の永禄6年(1563年)と伝えられており、父である高山友照がその教えに教化されたことで、家族全員で洗礼を受けたとされている。
右近はこのとき「ジュスト」という洗礼名を授かっている。
最後に
このように戦国時代には、想像以上のキリシタン大名や武将たちが存在していた。
純粋に教えに感銘を受けた者から、政治的な理由でキリシタンとなった者もいたが、その後は秀吉によるバテレン追放令、家康によるキリシタン国外追放令によって、徐々に迫害されていくのである。
参考 :
フロイスの見た戦国日本 | 中公文庫 川崎桃太著
異人たちが見た日本史 | 洋泉社 内藤孝宏著
ヨーロッパ文化と日本文化 | 岩波文庫 ルイス・フロイス著
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