群雄割拠の戦国時代、甲斐の国を治めた武田信玄は「甲斐の虎」とも呼ばれ、越後の龍・上杉謙信と幾度も繰り返した川中島の戦いは、あまりにも有名です。
そんな武田信玄といえば、兜をかぶった戦装束姿が印象的です。歴史好きではない方でも一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。
今回は、武田信玄の兜「諏訪法性兜」について掘り下げていきたいと思います。
武田信玄とは
信玄は、1521年に甲斐国の守護大名・武田信虎の嫡男として生まれ、重臣らと共に信虎を駿河国へ追放した後に、甲斐源氏第19代当主となりました。
正式な名称は源晴信で、信玄というのは出家した際の法名です。
戦国最強とも謳われる武田軍を率いて数々の戦で勝利をおさめましたが、その後持病が悪化し、甲斐国へと戻る途中でこの世を去りました。
1573年4月、享年53でした。
諏訪法性兜とは
諏訪法性兜というのは、上の画像で信玄がかぶっている兜のことです。ゲームや五月人形でもよく見かけます。
読み方は「すわほうしょうのかぶと」や「すわほっしょうのかぶと」と読みます。
この兜は信玄がかぶったと言われている実物が現存しています。
長野県下諏訪町にある「諏訪湖博物館・赤彦記念館」で保管されており、同館では普段はレプリカの展示が行われています。
2023年5月のGWには、こどもの日に合わせて本物が展示されており話題になりました。次の展示予定は不明です。
前立ては赤鬼の顔になっており、別名「白熊の兜」と呼ばれているように白い毛が兜を覆うようにつけられています。
この毛はヤクの毛で舶来品であり当時大変貴重なものでした。形としては吹き返しがついており、錣があるオールドタイプの一騎打ちに対応した作りになっています。
戦後時代末期には様々な形の兜が現れ、趣向が凝らされるようになりました。
諏訪法性兜が有名になったわけ
諏訪法性兜を作ったのは明珍信家(みょうちん のぶいえ)という人物で、室町時代に活躍した当時「日本最高の甲冑師」と評されていた人物です。越後越中や小田原でも寵愛され、多くの武将の甲冑を製作しました。
その中でも諏訪法性兜が有名になったのは、江戸時代に上演されて浮世絵が作られたからです。
それは、歌舞伎や人形浄瑠璃で人気の本朝廿四考(ほんちょうにじゅうしこう)という作品で、この物語は武田信玄の息子・勝頼と上杉謙信の娘・八重垣姫の恋の物語です。
本朝廿四考のあらすじは以下です。
敵対している武田家の勝頼の許嫁とされた八重垣姫でしたが、ある日、勝頼は将軍暗殺事件の濡れ衣を着せられて自害させられてしまいます。しかし、この自害した勝頼は身代わりの別人で、本物の勝頼は「花作り蓑作」として謙信に召し抱えられていました。
それを知った謙信は勝頼を始末しようしますが、八重垣姫は奥庭から法性兜を盗み出し、兜を守護している霊狐の狐火に導かれて湖を渡り、勝頼を助けに向かいます。
最後は真の黒幕・斎藤道三の陰謀を、武田・上杉が手を組んで打ち破るというストーリーになっています。
この話をモチーフにした歌川国芳の浮世絵が大変人気となり、八重垣姫が手にしている法性兜も有名になったと言われています。
八重垣姫が渡った湖というのは長野県にある諏訪湖のことで、諏訪湖には八重垣姫の像が建てられています。
諏訪法性兜の名前の由来
武田信玄は、諏訪大社を篤く信仰していました。
というのも諏訪大社上社に祭られているのは建御名方神(たけみなかたのかみ)という男の神様で、香取・鹿島と並んで評される軍神であるからです。
通称「諏訪大明神」とも呼ばれており、信玄は旗印としても使用していました。この神様は民話などで龍や巨大な蛇として描かれていることもあり、信玄の兜はその龍の姿を模したものであるとも言われています。
「諏訪法性兜」の「諏訪」とは諏訪大明神のことであり、「法性」というのは仏教で真理などという意味を持つ言葉になります。
つまり「諏訪法性兜」とは「諏訪大明神そのものである」というような意味があり、その兜をかぶっている信玄こそが諏訪大明神の化身であるということです。
信玄は自身を諏訪大明神とすることで、戦での願掛けをしていたのでしょう。
終わりに
信玄は道半ばで逝去し、兜は息子の勝頼に引き継がれ、今は諏訪湖博物館・赤彦記念館で大切に保管されています。
今でも信玄が建設を命じた信玄堤は使用されており、地元の人たちにも愛されている武将の兜は平和と安寧を願っていることでしょう。
参考 :
武田氏研究会「武田史研究」
三浦一郎「武田信玄・勝頼の甲冑と刀剣」
竹本住太夫「文楽浄瑠璃物語」
金井典美「諏訪信仰史」
三輪磐根「諏訪大社」
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