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戦国武将たちは、絶頂期においても思ってもみないことで命を落とすことは珍しくありませんでした。
今回の記事では、神頼みのせいで突然死したという逸話がある武将・尼子晴久(あまごはるひさ)の最期について紹介していきます。
幼くして父・兄を亡くし、祖父に育てられた尼子晴久
永正11年(1514年)尼子晴久は、名将と呼ばれた出雲の戦国大名・尼子経久(つねひさ)の嫡男・政久の次男として生まれました。
嫡男だった兄は早くに亡くなり、父の政久も晴久が4~5歳の頃に戦死。
政久の血統を絶やすまいとした祖父・経久の意向もあり、次男だった晴久が世子(直接の跡取り)となりました。
こうして晴久は祖父・経久に育てられることになりますが、甘やかされて育ったとされています。
そして時は流れ、80歳になった祖父・経久が隠居し、成人して24歳となっていた晴久が家督を継いで当主となりました。
しかし祖父の経久はすでに老齢で、晴久を支えるだけの気力や体力もありません。
家督譲渡後は、大叔父の尼子久幸(あまごひさゆき)が晴久の補佐として支え続けました。
尼子家の勢力を急拡大するも、毛利元就に惨敗
晴久が家督を継いだ後、天文7年(1538年)尼子氏は、大内領であった石見銀山を攻略し、因幡国を平定した後に播磨国へと侵攻、石見・因幡・播磨の守護・赤松晴政に大勝するなど勢力を拡大していきました。(※石見銀山はこの2年後に大内氏に奪取され、さらにその2年後に尼子氏が占領するなど、大内氏と尼子氏による争奪戦が繰り広げられる)
そんな晴久があの毛利元就と対決するのは、30代になってからのこと。
家督を継いでからの立て続けの勝利に気を良くしたのか、天文9年(1540年)大内義隆の傘下で急激に勢力を拡大していた安芸の有力国人・毛利元就を攻めたのです。
「元就を侮ってはならぬ!」
祖父・経久は出陣に反対して晴久を諫めましたが、戦国大名として勢いづいていた晴久は聞き入れることなく、毛利家の本拠地・吉田郡山城へ攻め入ります。
尼子家は3万人以上の大軍でしたが、毛利家は精鋭2,400人と農民・商人・職人を加えた合計8,000人程度。
戦力の差は、歴然としていました。
晴久は、この圧倒的な兵力差で吉田郡山城を攻め落とすつもりでしたが、毛利軍の奮戦により苦戦しました。
そのまま元就は大内の援軍・陶晴賢(すえはるたか)が到着するまで持ちこたえて、晴久を敗走へと追い込んだのです。
数か月におよぶ安芸遠征、兵糧もつきかけ兵力が落ちていたことに加え、指揮官であり晴久の補佐役でもあった大叔父の久幸が討死したことも、大きな痛手でした。
こうして晴久は命からがら逃げ戻りましたが、まもなく晴久を支え続けた祖父・経久も亡くなってしまいました。
第一次月山富田城の戦い
毛利家を攻めて惨敗した翌年の天文11年(1542年)、大内義隆が自ら大軍を率いて、尼子家の本拠地・月山富田城(がっさんとだじょう)に攻め込んできました。
毛利家も大内家に加担してここぞとばかりに攻撃をしてきますが、晴久は辛くも持ちこたえ、なんとか防衛に成功。
月山富田城は、標高184メートルの自然の地形を利用した山城で、別名「天空の城」と呼ばれるほど険しい地形で築かれた難攻不落の山城でした。
さすがの大内家・毛利家も、この山城を攻め落とすことは出来なかったのです。
大内軍が疲弊して撤退を始めると、大内側に寝返っていた国人衆たちが今度は尼子につき、戦況は完全に逆転しました。
尼子軍は追撃して大内軍に大打撃を与え、殿(しんがり)を任された毛利元就を、自害を覚悟させるほど追い詰めました。
尼子氏の最盛期を築く
この戦い以後、晴久は勢力を拡大していき、1551年に大内義隆が亡くなった影響もあり、その翌年の1552年、晴久は室町幕府第13代将軍・足利義輝より、山陰山陽8カ国の守護及び幕府相伴衆に任じられます。
また、朝廷から従五位下修理大夫を賜り、幕府と朝廷から、尼子氏が中国地方において優勢な勢力であると名実ともに改めて認められたのです。
この時点において、晴久は尼子氏の最盛期を創出したと言えるでしょう。
その後、尼子氏内での内部分裂や、そこにつけこんだ毛利元就からの調略も受けましたが、晴久は反乱分子を粛清し、逆に権力基盤の強化に成功します。
さらに晴久は、大内義隆の死後に大内家の主導権を握っていた陶晴賢が、毛利との厳島の戦いに敗れた隙をついて、石見銀山を再び奪取するべく銀山の防衛拠点・山吹城へむけて進軍し、包囲します。
毛利元就率いる毛利軍は山吹城を守ろうと進撃しましたが、なんと晴久率いる尼子軍は毛利軍を撃破し、石見銀山の奪取に成功しました。(忍原崩れ:おしばらくずれ)
その後、毛利元就は大内家の所領の大半を攻略して勢力を拡大しつつ、何度も石見銀山の奪取に挑み続けたものの晴久に敗北。
結局、晴久の存命時は、ついに石見銀山を奪い取ることはできなかったのです。
神頼みの水浴びをするも…事態は急変
「謀神」と呼ばれた毛利元就と、一進一退の攻防を繰り広げ続けていた晴久ですが、祖父・経久や大叔父・久幸が亡くなった影響が大きかったのか、次第に心を病んでいったといいます。
そして時は師走の夜。
今後の行く末が心配になった晴久は、ある行動に出ます。
「冷水を浴びて月にお祈りをするか…」
晴久は、勢いよく冷水を汲んで全身に浴び始めたのでした。
「うっ!?ううっーーー…!」
突然襲い掛かった胸の苦しみに、晴久は倒れこみます。
そして翌日の朝、毛利家との戦いの勝敗がつかぬまま、晴久は帰らぬ人となったのでした。享年47。
極寒の夜、冷水を浴び続けたことで急性心筋梗塞になったことが原因とされています。
また、あまりにも突然すぎる死だったため、毒殺説などもささやかれています。
おわりに
尼子晴久は、名将と呼ばれた祖父・経久に比べると、後世の評価はあまり高くありません。
確かに若い頃は、経久の反対を押し切って毛利元就に挑んで大敗し、大叔父・久幸からも「短慮で大将の器に乏しく、血気にはやって仁義に欠けている」と評されるなど、見ていて心配な若者だったのでしょう。
しかし、経久と久幸が亡くなってからの晴久は、尼子氏の全盛期を築き上げ、戦の天才・毛利元就を何度も破るなど、経久に劣らない名将に成長したと言えるでしょう。
毛利元就は、晴久急死の報を聞くと「一度でいいから旗本同士で戦いたかった」と言ったそうです。
参考 :
残念な死に方辞典 監修:小和田哲男
出雲尼子一族 著:米原 正義
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