名将たちの人心掌握術
下剋上が当たり前だった戦国時代において、戦国大名たちはいつ家臣から謀反を起こされるのかと、内心ひやひやしていただろう。
戦国時代の名将たちは、こうした家臣の裏切りを未然に防ぐための人心掌握術(気配り)も巧みだった。
今回はいくつかの例を紹介しよう。
上杉謙信「家臣の親まで大切にした」
家臣にも家族や親がいる。
そこに重きを置いたのが上杉謙信であった。
天正元年(1573年)7月、謙信は兵を率いて越中国(現在の富山県)に侵攻する。
越中守護代・神保長職や一向一揆勢を撃破した上杉軍は、その勢いのまま加賀国(現在の石川県)にまで及んだが、そこで足止めを食らう。
一向一揆勢が、謙信の侵攻に備えて築城した朝日山城で、根来衆から調達した沢山の鉄砲を用意していたのである。
上杉軍は朝日山城から鉄砲を撃ち続けられ、城になかなか近付くことができなかった。
しかし、数名の若侍が武功をあげたかったのか勝手に城に近付いていった。そして案の定集中砲火を浴びて死傷者が出た。
この報告を受けた謙信は激怒し、身勝手な行動をした若侍を捕えて監禁した。
そして、監禁されている若侍の父母に手紙を書いたのだ。
上杉家の重臣で、春日山城留守居役を勤めていた吉江景資(よしえかげすけ)夫婦宛ての手紙にはこう書かれていた。
「その方らの息子はこの謙信が意見したけれども、それを聞かずに一人で鉄砲の前を駆け歩いたので、家臣に命じて引きずり戻して今監禁している。さぞ心配しているだろうが、この謙信が見ていながら敵の鉄砲の前に彼らを出し、負傷するか撃ち殺されでもしたら、その時はこの謙信入道を恨むであろうと思い、ひとまず監禁した。よくよくの心遣いと思って欲しい」
戦国の世であろうと親は子のことを心配するものだ。
ましてや主君に監禁されているとなれば、心穏やかではいられないはず。
その親の心情を察して、謙信は手紙を書いたのだ。
「家臣の心を掴むには、まずは親の心から」という、謙信ならではの人心掌握術である。
島津義弘と毛利元就「1対1で心を掴む」
「鬼島津」の異名を取った島津の猛将・島津義弘は、実は日頃から家臣に対する気配りに長けていた人物だったことが『御自記』に記されている。
家臣の息子が初めて出陣(初陣)する際には、必ず1対1で会って「父と似ているため、劣らぬ働きをするだろう」と声をかけたという。
この言葉は、子のみならず父もモチベーションが上がる一言だ。
しかし、中にはなかなか手柄を立てることができない者もいる。
そのような者には「不運にして未だ手柄はないが、父に勝る様子であるからいずれ立派な働きをするだろう」と声をかけた。
このように、状況次第で言葉を変えるなどの些細な気遣いが、家臣たちの忠義を強くするのである。
次に西国の覇者・毛利元就である。
『毛利元就卿伝』には、島津義弘と同じような逸話が記されている。
元就には一つの信念があった。
それは「人は常日頃から自分に接してくれる者に忠義を感じる」ということである。
大将がお高くとまって下級武士と直接話をしない。そんな状況では下級武士はなかなか大将に忠義を感じることはできないだろう。
それよりも日ごろ接して指示を出す物頭(ものがしら)の方に忠義を感じるはずである。
元就は「忠義は機械的に生まれるわけではない。そこには必ず人の感情が介入する」という考えを持っていた。
元就は、どの家臣にも分け隔てなく親しげに声をかけていたという。
下級武士と接する際には、予め必ず酒と餅を用意していた。
酒をたしなむ者には「酒は寒い時に身体を温めることができるし、陣中でも平時でも談話を弾ませることができる良い物だ」と言って酒を勧めた。
逆に酒が飲めない者には「酒は人の気を高ぶらせるものだ。言わなくてもいいことを言わせる悪い物だ」と言って餅を勧めたという。
相手に強要することはなく、常に相手のものさしで物事を測っていた。元就は相手の立場でのコミュニケーションを心掛けていたのだ。
元就自身は父と兄が酒で早死しているため、酒を飲まなかったという。
徳川家康 「えこひいきをしない」
贔屓(ひいき)とは、目をかけてやるという意味で、依怙(えこ)とは、一方に偏るという意味である。
徳川家康は「贔屓はいいが、依怙は駄目だ」という考えで、公平性を重んじる大名であった。
家康は、かつて滅ぼした一族の遺臣たちの多くを、殺さずにそのまま召し抱えている。
今川氏・北条氏・武田氏などが顕著な例で、特に武田氏遺臣は約900人が徳川軍に引き継がれた。
元武田家で、その後徳川家で活躍した家臣としては、大久保長安、成瀬正一、保科正光などが有名である。
また、武田家の最強武将・山県昌景が率いた「武田の赤備え」を支えた遺臣たちは、井伊直政の元で「井伊の赤備え」として精強な軍団となった。
家臣をただの駒として見るのか、能力に応じて適材適所で大事に扱うのか、主君の考え方ひとつで家臣団の結束は大きく変わる。
秀吉が家康に秘蔵の名物茶器を自慢し「どんな名物茶器を持っているのか?」と聞いたところ、家康はこう答えたという。
「名物茶器など持ってはいないが、危険を顧みずに火の中・水の中へ飛び込むような命知らずの家臣が宝です」
これは天下を一代で終わらせた秀吉と、十五代続かせた家康との違いであろう。
「家臣が宝」と言われた者が、家康に忠義を尽くすのは至極当然だったのだ。
参考:「出羽吉江文書」「御自記」「毛利元就卿伝」「戦国武将の手紙を読む」
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