戦国武将たちの「衣食住」
今も昔も、日常生活の基本となるのが「衣食住」である。
戦国時代を生き抜いた武将たちは、戦場では甲冑を身にまとい、勇猛果敢に戦ったが、普段の生活ではどのような服を着て、どのような食事を摂り、どのような家に住んでいたのだろうか?
ここでは、戦国武将たちの平常時の「衣食住」について詳しく探っていきたい。
どんな服を着ていたのか?
戦国時代の衣服で、全ての身分の人々に共通するのが小袖(こそで)の着用である。
小袖は、奈良時代から存在していたが、当初は現代の下着に相当するものであった。
しかし、鎌倉時代以降、武家が政治的・社会的に力を持つようになると、貴族階級が着用した束帯や直衣が簡略化され、実用性が重視されるようになった。結果として、小袖は上着としても用いられるようになったのである。
小袖は男女や身分を問わず着用されたが、その形や着こなしには多少の違いがあった。
戦国時代には、小袖に肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)を組み合わせるのが一般的な平服のスタイルであった。
肩衣は袖のない羽織のようなもので、肩幅を広く見せるデザインが特徴であり、動きやすさから陣中での着用が普及した。
袴は現在のズボンやスカートに相当するものであり、特に馬に乗る際に邪魔にならないよう裾を絞ったデザインが多くなっていった。
公的な場では、直垂(ひただれ)と烏帽子(えぼし)が一般的に着用された。
直垂は現在の着物に近く、腰紐で固定して着る。生地は主に絹を使用し、装飾性の高い柄や模様が多く用いられ、個性を反映するファッションアイテムとしても重要だった。
烏帽子は奈良時代から存在し、戦国時代には機能性を重視したコンパクトなデザインが主流となり「侍烏帽子」とも呼ばれた。身分の高い武将は、直垂に大きな家紋をあしらった大紋を着用することも多かった。
どんな食事を摂っていたのか?
戦国時代に来日したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、イエズス会本部に宛てた手紙の中で、日本人の食生活について以下のように記している。
・幼少期から2本の棒(箸)を使って食べる
・米を主食としている
・汁物(味噌汁)を好む
・魚は煮る・焼くだけではなく生でも食べる
当時の日本では、1日2食が基本であり、特別な接待や饗宴の時間を除けば、午前8時頃に朝食、午後2時頃に夕食を摂るのが一般的であった。
献立は一汁一菜(汁物一品と惣菜一品)と米を基本とした簡素なものであり、身分に関わらずこの習慣は共通していた。
主なエネルギー源は米であり、特に玄米に近い荒搗(あらつき)の黒米が主食であった。
武士には上層部から足軽まで一律で1日あたり5合(約750g)の黒米が支給されており、1日2食であっても大量の米を消費していたことが分かる。
白米は贅沢品であり、貴族や身分の高い者しか口にできなかったが、徳川家康のように健康を重視して粗食を摂る武将もいた。家康は粗食を好み、豊臣秀吉は白米を食べて脚気になったという逸話もある。
黒米の食べ方には、釜で炊いた「姫飯(ひめいい)」とせいろで蒸し上げた「強飯(こわいい)」があった。強飯は汁をかけて食べるのが一般的であった。
平時の惣菜は野菜の煮物や漬け物、梅干し、納豆、海苔などが中心であり、戦時には魚や鳥など栄養価の高い食材も摂取した。
味噌汁は多くの場合締めとして米にかけて食べるスタイルが一般的であった。
味噌は米と並ぶ重要な栄養源であり、干して保存した「干味噌(ほしみそ)」や「玉味噌(たまみそ)」、「芋がら縄(いもがらなわ)」などが戦時に重宝された。
どんな家に住んでいたのか?
戦国時代の武士たちの邸宅は総じて「武家屋敷」と呼ばれていた。
室町幕府が成立する以前は、武士の住居は貴族の「寝殿造(しんでんづくり)」を模倣したものが一般的だったが、この様式は武士の生活には適していなかった。
室町時代になると、武家屋敷の主流は「主殿造(しゅでんづくり)」に変わった。主殿造は左右対称にこだわらず、独立した機能を持つ建物を敷地内に配置する様式で、特に決まったスタイルはなかった。
例えば、甲斐の武田氏の屋敷では、接客スペースとして「主殿」を敷地の中心に配置し、その北側には家主のプライベートスペースや妻子が暮らす対屋(たいのや)、風呂、台所などが設けられていた。主殿の南側は「表向(おもてむき)」と呼ばれる政務や接客のためのパブリックスペースで、「本主殿(ほんしゅでん)」などが設けられていた。
武田氏は数多い戦国大名の中でも特に有力な一族であり、その屋敷は当時としては非常に豪華なものであった。
しかし、全ての武家屋敷がこのように大規模であったわけではない。中級武士の屋敷は建物数の少ない簡素な住居であり、身分の低い足軽などは長屋暮らしが一般的であった。
このように戦国時代の「衣食住」においても、実用性や機能性が重視されていた。
戦乱の世を生き抜くためには、日常生活においても様々な工夫が求められていたのである。
参考 : 『フロイス日本史』他
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