戦国時代、日本中で繰り広げられた苛烈な戦いにおいて、武将たちは当然「勝ち」に執着していた。
自身の命はもちろん、一族、家臣、そして民を守るために、武将たちは戦い続けたのである。
名誉や誇りにこだわるよりも、どんな手段を使ってでも勝つことが重要であった。
今回は、そんな戦国時代の戦いにおける「戦術、奇策」について詳しく触れていきたい。
戦の作法
意外に思われるかもしれないが、合戦には「作法」のようなものが存在していた。時代とともに形骸化されていったが決められた手順のようなものがあった。
平安時代から南北朝時代にかけて行われていたのが「矢合わせ」である。
これは戦闘開始をする互いの合図であり、両軍は敵陣の近くまで進み、まず音を鳴らす「鏑矢(かぶらや)」を放つ。
これを合図に弓隊が一斉に矢を放つ。この時の敵陣との距離は約90~120メートルであった。
次の流れとしては「槍合わせ」である。
3間(約5.4メートル)以上の長槍を持った長槍隊が敵軍に突進する。長槍は実際には突くよりも叩くことが多く、相手に脳震盪を起こさせたり、足を払って倒したりしていた。
槍合わせが終わると、次に登場するのが「騎馬隊」である。
騎馬隊は長槍を持って敵軍を切り崩し、ここからは敵味方入り乱れての乱戦となった。戦いの中で、将は戦況を見ながら陣形を変え、人員を采配していた。しばらくすると、どちらが優勢かがはっきりしてくる。
戦況が不利な側は退却を決断し、軍の動きを止めて撤退していた。
こうした流れで戦の勝敗を決するのが正攻法であった。
奇襲
先述した戦の手順を無視して行われる戦法の代表格が「奇襲攻撃」である。
積極的に勝ちを狙いたいが、兵力差がある場合に用いられる戦術である。奇襲攻撃は相手の隙を突くことが重要であり、特に「夜討ち朝駆け」が効果的であった。
夜討ちは「夜襲」、朝駆けは「早朝の奇襲」を意味し、どちらも相手の疲労がピークに達する時間帯に攻撃を仕掛ける。敵陣の近くや後方に移動するのも、夜陰に隠れて行うと効率的であった。
しかし、昼間に奇襲を行うこともあった。織田信長の桶狭間の戦いはその典型である。今川義元の居場所を逐一報告させ、正確な位置を把握した上で奇襲を成功させたのである。
つまり、奇襲攻撃は前提として、敵の正確な位置を知ることが決め手となる。
奇策
また、常識を超えた「奇策」と呼ばれる戦法が存在した。
ここでは、その代表的な例をいくつか紹介する。
釣り野伏せ
まずは、九州・薩摩の島津義久が考案したとされる「釣り野伏せ」である。
この戦法は簡単に言えば「囮作戦」である。
少数の先手部隊が敵と必死に戦いながら少しずつ後退し、やがて敗走を装う。これに引っかかり追撃してくる敵は、陣形が崩れて縦列に伸びる。そこを伏兵が側面から攻撃し、さらに先手部隊も反転して攻撃を加える。
戦いの最中、敗走する敵を追撃するのはセオリーだが、これを巧みに利用した戦術が「釣り野伏せ」だ。
この戦法が成功した例として有名なのが、天正6年(1578年)の「耳川の戦い」である。
当初、大友軍は島津軍の釣り野伏せを警戒していたが、優勢に立ったことで警戒を緩め、追撃した結果、見事に釣り野伏せに嵌ってしまった。この戦法の成功の鍵は、囮役の先手部隊が全力で戦うことであり、囮だと見破られないようにすることが重要である。
しかし、釣り野伏せは先手部隊、伏兵、本隊と兵を分散させるため、リスクも伴う戦術である。
刈田狼藉(かりたろうぜき)
次に紹介する奇策は「刈田狼藉」である。
これは籠城しながら援軍を待つ敵を引きずり出す戦法で、敵の領地内で田を刈り取る狼藉を働くという奇策である。
特に収穫前の稲や農作物を刈り取ることで、大きな効果を発揮した。
自分の領地の作物が無惨に刈り取られるのを見過ごすわけにはいかず、敵は不本意ながらも動き出す。これを狙って戦に持ち込むという戦術だ。他にも田に放火したり、兵糧を略奪することもあった。兵糧が減少する籠城戦においては非常に効果的だったのだ。
悪口(あっこう)
さらに、挑発行為の一つとして「悪口」という稚拙な作戦もあった。
これは「言葉戦い」とも呼ばれ、敵を挑発して冷静さを失わせる戦術である。
羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が戦った「小牧・長久手の戦い」で、徳川軍の榊原康政が秀吉を侮辱する檄文をばら撒き、秀吉を激怒させたという。
榊原康政は「秀吉は卑しい生まれであり、信長に大恩を受けながら織田家に弓を引く不義悪逆の者である」と書き、自分の名前を署名して堂々と公表した。
秀吉はこれを知って激怒し、榊原康政に懸賞金をかけるまでに至った。
冷静さを失った秀吉は局地戦で敗北し、まんまと榊原康政の罠に嵌ったのである。
「馬」を使ったお色気作戦
最後に紹介するのは「馬」を使ったお色気作戦である。
織田信長に反旗を翻した別所長治の家臣・淡河定範(おうご さだのり)が用いた戦術である。
戦国時代に使われた馬は牡馬(オス馬)であり、淡河定範は牝馬(メス馬)を50頭集めて敵陣に送り込んだ。
戦闘中とはいえ、牡馬が牝馬を目の前にすると理性を失い暴れ出す。これにより敵軍は混乱し、淡河軍はこの混乱を利用して反撃し、秀長軍は敗走を余儀なくされたという。
おわりに
戦国時代の戦いにおいて、勝利こそが全てであった。
これらの奇策は常識を超えたものであり、戦局を大きく変えることがあった。
どんな手段を使ってでも勝つことが求められ、「勝てば官軍」という言葉が象徴するように、様々な戦法が用いられたのである。
参考文献:「戦国 戦の作法」「戦国10大合戦の謎」など
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