「みすみす死ぬな。退くも勇気だ!」
※宮崎駿「もののけ姫」
勇気とはただ進むだけでなく、時として退く時にも問われるものです。戦わねばならぬ時に戦わぬのは卑怯ですが、戦うべきでない時に戦うのは匹夫の勇と言わざるを得ません。
しかしその見極めは非常に難しく(後から安全な場所で評論するのは簡単ですが)、古今東西の名将たちも往々にして判断を誤ってしまったのでした。
今回は「海道一の弓取り」と謳われた徳川家康(とくがわ いえやす)が大敗を喫し、一時は命さえ危ぶまれた「三大危機」の一つ・三方ヶ原の合戦を紹介(ちなみに後の二つは三河一向一揆と神君伊賀越え)。
時は元亀3年(1572年)12月、宿敵である「甲斐の虎」武田信玄(たけだ しんげん)が大軍を率いて押し寄せてきたのでした。
鳥居忠次の忠告と壮絶な最期
「申し上げます!」
武田の情勢を探るため、斥候(偵察)として派遣されていた鳥居忠次(とりい ただつぐ。四郎左衛門、鳥居元忠の弟)が家康に報告します。
「敵は大軍、隊列も厳正にして士気・練度ともに十分なれば、軽々に挑んではなりませぬ。ただちに先手(先発隊)をお引上げ下され。戦うなら堀田辺りまで誘い込めば、勝算が見えるやも知れませぬが……」
これを聞いた家康は機嫌を損ねて四郎左衛門を叱りつけました。
「いかに信玄だからと言って、鬼神でもあるまい。大軍だからと恐れるに足らぬ。まったくいつも剛胆なそなたらしくもない、今日の臆病ぶりはどうしたことか」
そう言われて、四郎左衛門も負けじと言い返します。
「何を仰せか。御屋形様こそ、日ごろの慎重さを忘れて血気に逸るは何ゆえでしょうか……ともあれ、軽々に攻めかかることはお考え下され」
家康の御前を退出した四郎左衛門は、しかし他の家臣たちに対してはこう言いました。
「いやぁ、先ほど斥候より戻ったが、今日の戦さは必ず御味方が勝利しようぞ。各々がた、進んで忠戦なされよ」
これは決して家康を謀(たばか)ったのではなく、家康がどうしても戦うことを決断するなら、家臣たちは命を棄てて忠義に戦うよう鼓舞したのです。
実に健気な限りですが、果たして徳川勢は惨敗。四郎左衛門は武田の猛将・土屋昌続(つちや まさつぐ。武田二十四将の一人)と一騎討の果てに討ち取られてしまいました。
「槍の半蔵」渡辺守綱も諫めるが……
家康に自重するよう諫めたのは、鳥居忠次だけではありません。槍半蔵こと渡辺守綱(わたなべ もりつな)も斥候から戻り、やはり戦うべきでないと報告します。
「まったく四郎左衛門と言い……そなたらは揃いも揃って腰抜けか!もうよい、治右衛門(じゑもん。大久保忠佐)、七五郎(しちごろう。柴田康忠、柴田七九郎康政)、ただちに撃って出よ!」
「「……はっ!」」
現場を見て来た守綱の忠告が気になるものの、主君に行けと言われれば行かねばならない……立ち上がった忠佐と康忠の二人を、守綱は必死に抑えました。
「行くな!」
「行け!」
止める守綱、命じる家康……激高した家康は叱りつけます。
「……例えばじゃ。よそ者が我が城内へ土足で踏み入り、これを咎めない道理があるものか。武田がどれほど強いからと言って、我が城下を踏みにじっていくのを、ただ黙って見ているのは同じことではないか。弓矢とる武士として、これ以上の恥辱はなかろうが。人に『あいつは敵が枕元にいても怖くて起き上がれない臆病者だ』と嘲られるのは末代までの恥辱であろう。戦の勝敗は天運しだい。とにもかくいも戦わないわけには行かんのだ!」
家康の必死な訴えに心ゆさぶられた家臣たちは「そうだ、ここで戦わねば武士に非ず」と奮い立ち、とうとう出陣を決定したということです。
終わりに
……元亀三年十二月武田信玄かさねて大兵を率ひて浜松近く攻来る。人心悩々として穏ならず。この時鳥居四郎左衛門忠次斥候うけたまはりはせ還りて。敵大勢にて行伍の様もまた厳整なればたやすく戦をはじむべからず。早々御先手を引還させ給へ。もしまた一戦を遂られんならば。わが軍列をとゝのへ鉄砲迫合に時を移し。敵の堀田辺まで打出むを待て戦をはじめば。万が一御勝利もあらんか。これも全勝の道にはあらずと申す。 君聞し召御気色あしく。信玄なればとて鬼神にもあらず。又大軍なればとておそるゝにもたらず。汝平生は大剛のものなるが。今日何とて臆したるやと仰らるれば。忠次 君常は持重に過させ給ふが。今日は何とて血気にはやらせ給ふぞ。心得ぬ御事なれ。只今に某が申せし事を思ひ當らせ給ふべしとて御前を退しが。御家人に向ては。今日の戦かならず御勝利なるべし。をのゝゝ進むで忠戦せよと言捨て。みづからは敵軍にはせ入て討死す。渡辺半蔵守綱も斥候に出しが立ち帰り。今日の戦はあやうからんと申上れば。いよゝゝ御けしきあしきにより。御側に候ひし大久保治右衛門忠佐。柴田七五郎康忠はせ出むとするを。守綱制してゆるさず。 君たとへば人あつてわが城内を踏通らんに咎めであるべきや。いかに武田が猛勢なればとて。城下を蹂躙してをしゆくを。居ながら傍観すべき理なし。弓箭の恥辱これに過じ。後日に至り彼は敵に枕上を踏越れしに。起もあがられ在し臆病者よと。世にも人にも嘲られんこそ後代までの恥辱なれ。勝敗は天にあり。とにもかくにも戦をせではあるべからずと仰ければ。いづれも此御詞に励され。勇気奮決して遂に兵を進られしとぞ。(東遷基叢。)……
※『東照宮御実紀附録』巻二「元亀三年信玄侵遠州」「三方原敗軍(旗士戦功)」
かくして三方ヶ原の合戦(12月22日)に臨んだ家康たちはボロボロに惨敗。忠勇の家臣を多く喪い、自身は袴を汚しながら命からがら逃げ帰ったと言います。
あの時、四郎左衛門と半蔵の忠告を聞いておけば……何度悔やんでも悔やみきれなかったことでしょう。
しかし、当時「織田と武田に挟まれた弱小勢力」「織田にとっては対武田の捨て駒・使い捨ての楯」「武田にとっては対織田の障害物」くらいに思われていたであろう家康。
その立場を思えば、ここで武田を見逃せば「役立たず」として織田から完全に切り捨てられ、遠からず破滅してしまう危機感があったのかも知れません。
(信玄はそこまで読んで、あえて背を向け、巧みに誘い出したものと考えられます)
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では松本潤の演じる家康がどのように開戦を決断するのか、今から楽しみですね。
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
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