於万の方とは
於万の方(おまんのかた : 長勝院)とは、天下人・徳川家康の側室となったが、正室の築山殿に認められず、当時忌み嫌われていた双子を産んだ女性である。
家康の側室には同じ名の於万の方がいるが、その側室は「養珠院」という。
今回紹介する於万の方は、結城秀康の実母だが、家康にも正室・築山殿にも冷遇された悲しい生涯を送った女性である。
しかし高貴な血を引いた一族の娘で、現在の皇室とも関係が深い人でもあった。
今回は、家康の側室となった於万の方の悲しい生涯について解説したい。
出自
於万の方(おまんのかた)は、天文17年(1548年)三河にあった池鯉鮒神社の神主・永見貞英(ながみさだふね)の娘として生まれた。
名は「万、於古茶(おこちゃ)、松、菊子、於故満」と伝わるが、ここでは「於万の方」と記させていただく。
於万の方の生家・永見家の家系は、第51代・平城天皇の流れを汲む、伊勢物語の主人公として知られる平安一のプレイボーイ貴族・在原業平の血筋で、高貴な血を引く家系の末裔であった。
この当時、三河は今川義元や尾張の織田信秀などが三河を侵略するなど戦乱の中にあり、三河の松平家は戦国乱世の真っただ中であった。
於万の方の生家・池鯉鮒神社も2度の戦に巻き込まれ、今川方に社殿を焼かれるなどの被害があったために、武士である水野家と婚姻関係を結び、於万の方の母は水野忠政の娘だった。
そのため於万の方は、家康の実母・於大の方の姪にあたり、家康の従兄妹でもあった。
於万の方の幼少期の史料はほぼなく、どのような経緯があったのかは分からないが、家康の正室・築山殿の奥女中として働いていたという。
双子を産む
家康の実母・於大の方の姪ということから、築山殿の身近なお世話をする係をしていた可能性が高く、それなりに優遇されていたと推察ができる。
この頃の女性は13~16歳位で嫁に出されるか、側室となる事が多かったので、その年頃に於万の方は家康の目に留まったものと考えられる。
築山殿は長男・信康と長女・亀姫と共に岡崎城に住んでいたことから、岡崎城に家康が行った時に於万の方を見初めたのかもしれない。
於万の方は妊娠し、双子の男子を産んだが、当時双子は「畜生腹」と呼ばれ、忌み嫌われていた。
畜生腹とは「獣が一度に何匹も産むこと」からくる言葉で、迷信深い時代の女性への暴言だった。
その為、家康は双子が生まれたことを喜ばず、1人はすぐに於万の方の実家である永見家へと養子に出され、永見貞愛と名付けられ、池鯉鮒神社を継いだ。
於万の方が家康の子を妊娠したことを知った築山殿は激怒し、「於万の方を裸にして庭の木に括りつけた」という逸話がある。
そこで家康の家臣・本多重次がそれを見かねて浜松に連れていき、中村という男の元で於万の方は匿われ、そこで双子を産んだという。
当時の正室には、側室の妊娠を認めるか認めないかの権限があったが、築山殿は於万の方を側室として認めなかった。
養子に出された永見貞愛は家康と会うことはなく「生まれてすぐに死んだ」と於万の方に伝えられたという説もある。
もう1人の子の名は「於義伊(おぎい)」と名付けられたが、家康がこの子の顔を見て「ギギという魚に似て気持ちが悪い」と言って、その名を付けたという悲惨な話もある。
その後、家康は3年間、於万の方と於義伊にも会うことはなかった。
当時の家康は織田信長と同盟を結び、武田信玄と戦っている最中で会いに来る暇もなく、男子誕生の盛大な祝いやお披露目もなかったという。
正式な子として認められない於義伊と於万の方にとっては、辛く悲しい日々であっただろう。
そんな腹違いの弟を不憫に思った兄の信康は、父・家康に於義伊と会うことを再三促した。そして於義伊が3歳になった頃にようやく父との対面が叶ったという。
そんな優しい兄・信康だったが、於義伊が6歳の時に切腹させられ、築山殿も殺害されてしまった。(※築山事件)
突然の嫡男の死で、次男の於義伊が後継ぎ候補になったが、やはり結果的には後継ぎにはなれなかった。
それはまだ於義伊が幼かったことと、織田信長が本能寺の変で亡くなり、羽柴秀吉が主君の仇・明智光秀を討ち、勢力を拡大して家康と戦うことになったからである。
この大事な「小牧・長久手の戦い」の初戦に勝利した家康だったが、手を組んでいた織田信雄が勝手に秀吉と和睦したことで、家康は大義を失って兵を引いた。
この戦の和睦の条件として、於義伊は秀吉の養子として人質となる。於義伊は秀吉の「秀」の字と家康の「康」の字をもらって「羽柴三河守秀康」となった。
しかし5年後に秀吉に子が生まれ、秀康は結城家に養子に出されて「結城秀康」となるのである。
短い息子との同居
結城家の婿養子となった秀康、永見家の養子になった永見貞愛、2人の子どもと会うことができなかった於万の方。
その間どこで何をしていたのかという史料はなく、そのまま家康の家臣・中村家にいた可能性が高いという。
家康には西郷局という側室がおり、後に2代将軍となる秀忠が、信康が切腹する半年前に誕生していた。
於万の方は家康の側に行くことができず、息子たちの身を案ずることしかできなかった。
しかし秀吉が亡くなり、ようやく秀康は父・家康のもとで働けるようになった。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、家康の命で上杉討伐の抑えとして宇都宮に残り、伊達政宗と共に上杉景勝と戦った。
秀康はその功績が評価され、越前の北ノ庄城主として68万石を与えられて松平姓を名乗ることを許された。
この時、秀康27歳、於万の方53歳、20年近く経ってようやく秀康と於万の方は北ノ庄城で一緒に暮らすことができたのである。
しかし念願が叶った母子の生活は、わずか7年ほどで終わってしまう。
秀康が34歳という若さで亡くなってしまったからだ。
しかもその3年前には、永見貞愛も31歳で亡くなっていた。
於万の方は家康の許可も得ず、秀康が亡くなってすぐに出家し「長勝院」と名乗り、息子の菩提を弔らいながら72歳まで生きた。許可を得なかったことは許されたという。
天皇家とのつながり
秀康の後を継いだ松平忠直は不行跡を理由に配流されたが、その弟・忠昌が3代目を継いだ。
秀康の五男・松平直良の流れを汲む娘が第120代・仁孝天皇の子を産み、現在の天皇陛下まで繋がっている。
また、配流された松平忠直の血が、昭和天皇を産んだ貞明皇后の血筋へと続いている。
家康に認められず、将軍の側室にも、将軍の生母にもなれなかった於万の方だが、天皇陛下の血筋には確実に於万の方の生きていた証が残っているのである。
日曜日の「どうする家康」で瀬名姫が於万のことを貴方は・・・・・と「ひとかどの女性・賢い女性」として本心を見抜いたシーンがあった。あれを見た後でこの記事を読むとあの意味がすごくわかりました。ありがとうございます。
rapportsさんが投稿した結城秀康の中で、瀬名姫が於万の方のことを裸で木にくくったのは後世の創作であることが分かったが「どうする家康」では自分から頼んで木にくくられた於万の方を瀬名姫が見抜きそなたはスゴイ女だと認めた。
今回、rapportsさんがこれは創作だと書かなかったのはきっと結城秀康で書いたからなんですね。