信玄が作った鉄の結束
戦国時代、武士たちは主君に不満があれば別の主君に乗り換える者も多かった。
出世に関しても年功序列どころか、力のある者が上に行く下剋上も頻繁に起こった。
そんな時代に「鉄の結束」を誇る組織があった。
それは、武田信玄率いる甲斐武田家である。
武田家には信玄を始めとする「武田二十四将」と言われた伝説の家臣たちがいた。
信玄の両目の如しと言われた真田昌幸や曽根昌世、不死身と呼ばれた猛将・馬場信春など有能な家臣も多かったが、クセが強く扱いにくい家臣も多かった。
しかし信玄は、彼らをどう活かすかに心を砕いた。
信玄は「人を使うとは人の業(能力)をいかに使うかである」と語っている。
信玄は一体どのようにして家臣たちの能力を見出し、「鉄の結束」を誇る家臣団にまとめ上げたのだろうか?
今回は、家臣が働きやすい環境作り、信玄流の「働き方改革」について掘り下げていきたい。
君は舟、臣は水
戦国大名は全般的にワンマンと見られがちだが、当時中国から伝わった言葉がある。
「君は舟、臣は水」
※主君は、家臣という水の上に浮く舟であるという意味
うまく水をコントロールすれば舟は安泰に航行できるが、水が荒れれば舟が転覆することもあるということである。
信玄が武田家の家督を継いだきっかけは、父・信虎と家臣の間の溝にあった。
父・信虎は合戦上手だったが、ワンマンタイプのリーダーでもあった。
遂にはクーデターを起こされ、甲斐を追放されてしまう。
そんな父に代わって主君になったのが信玄(晴信)だった。
人を見捨てず、見続けよ!
数多くいた家臣の中にはどうにも困った人物がいたようで、中でも岩間大蔵左衛門は生まれつきの臆病者で、合戦がある度に癪を起こして目を回して倒れ、血なまぐさい戦場に出られなかったという。
武士として戦で役に立たないという、ある意味最低な家臣だった。
また曲淵庄佐右衛門という家臣は、40歳になるまで訴訟を起こすこと74~75回、うち1度は勝ち、1度は和解、残りは全て負け、という協調性の無いトラブルメーカーだった。
こんな2人に対し、信玄が取った対応は「人を見捨てず、見続けよ」であった。
まず臆病者の岩間に対して、信玄は「家中の悪事を内偵し、遠慮なく報告せよ」と命じた。
そして「もし隠し事が露見したらお前を死罪にする」と申し付けた。
臆病者の岩間は死罪になるのを恐れ、熱心にあらゆる情報を聞き出した。
信玄は岩間の臆病者という特徴を生かし、新たな役目を与えたのだ。
トラブルメーカーの曲淵に対しては、信玄は何かを命じることはなかった。
「いかにあれが至らぬ者でも武道の奉公は見事だ」と、逆に周囲の者たちを説得したのである。
実は曲淵は、戦で数々の功績を挙げてきた武将であった。たとえ欠点があっても信玄は長所を大切にしたのだ。
これを聞いた家臣たちは、自分の本分を全うするように覚悟を新たにしたという。
なぜ信玄は、どんな家臣でも見捨てなかったのだろうか?
信玄は家臣それぞれの長所を探そうと、日々目を凝らして観察していたという。
役職が先にあって、そこに人を配置したわけではない。
信玄は家臣たちがどういう仕事が向いているのか、常に考えていたのである。
抜擢人事
信玄は見所のある若者を、まず側近に取り立てた。
後に「武田四天王」となる高坂弾正(春日虎綱)もその1人だった。
高坂弾正は農民出身でありながら、足軽大将、海津城上代と大出世を果たしたが、スタートは信玄の側近である近習であった。
信玄は身の回りの世話をさせながら、彼の能力を見抜いて大抜擢を行ったのである。
そして高坂は、その期待に見事応えた。
モチベーションの高め方
戦国時代において家臣たちが能力を発揮する最大の場は「戦」である。
信玄の数多い戦の中でも特に有名なのは宿敵・上杉謙信との「川中島の戦い」であろう。
この戦の真っただ中でも、信玄流の家臣の能力を伸ばす秘策があった。
それは家臣のモチベーションの高め方だった。
近年の調査で、信玄は身分の低い者でも戦で良い働きをすれば「感状(功を賞して出される文書)」を渡していたことが分かった。
しかもその「感状」は、手柄を立てたその当日に書いて渡したという。
今夜22時からEテレで放送の #知恵泉 は #武田信玄 の立場から見た #川中島の戦い がテーマですね。
画像は、第2次川中島の戦いで、首一つを討ち取った秋山式部右衛門尉に対する信玄の感状。
信玄と #上杉謙信 は長期のにらみあいの末に、両軍とも撤退したとされています。
※現在展示されていません。 pic.twitter.com/BVZfzyHp8T— 泰巖歴史美術館 (@taigan_hm) April 11, 2023
「感状」は通常、大名が身分の高い武将や味方になってくれた武将に贈るものだったが、信玄は身分の上下に関係なく贈った。
「感状」を贈られた身分の低い家臣のモチベーションは、当然高揚したことだろう。
これも信玄流の家臣のやる気と能力を引き出す環境作りであった。
喧嘩両成敗
信玄の「働き方改革」の特徴としてもう一つとして挙げられるのが「喧嘩両成敗」である。
これは「喧嘩をした者は理由を問わず成敗する」というもので、法度にもそう明記した。
当時、揉め事は武力も辞さずの自力救済が一般的であった。
そのため、個人の揉め事が村や地域を巻き込み、領国の安定を損ねる難題にまで発展することもあったのだ。
そこで信玄が大事にしたのが「相手を認め、自分を見つめる」ということだった。
合議制
信玄が組織運営で大切にしたのが「合議制」である。
武田家では毎年12月に、翌年の軍事行動を決める重要な国の方針も合議制で決めていた。
家臣たちは活発に意見を出して話し合いを行ったが、信玄はほとんど口を挟むことはなかったという。
そこには信玄の狙いがあった。
まずは合議制によって、家臣たちの中に一体感が生まれた。
さらに自分たちが武田家の方向性を決められる立場にあることで積極性が生まれ、それぞれが上杉・北条・織田・徳川などの分析をしていたのである。
しかも信玄は、イエスマンや忖度も嫌った。
様々な考えを持つ家臣たちが自由に意見を言い合うことで、戦略や戦術もより研ぎ澄まされた。
こうして武田家の家臣団は強固な一枚岩となり「戦国最強」と謳われる軍団となったのである。
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵」
これは信玄が領国統治の方法を示した有名な言葉である。
しかしこれは、信玄の人心掌握術の苦労を語った逆説的警句だったとも言われている。
武田家の本質は地方豪族の寄り合い所帯であり、中央集権的にまとめ上げるのはかなり困難だった。
信玄は前述したように様々な策を取り、苦労して家臣団をまとめ上げたのである。
おわりに
「トップダウン型」の父がクーデターで追放され、自分が主君になった武田信玄は、家臣団に意見を言わせて合意を得ながら物事を決めていく「ボトムアップ型」のリーダーとなった。
また、人を見捨てず良い部分を尊重して適材適所に配置し、身分が低い者であっても能力があれば大抜擢した。
こうした数々の「働き方改革」を行なったことで、戦国最強と謳われる鉄の武田軍団は生まれたのである。
この記事へのコメントはありません。