家康暗殺計画
慶長4年(1599年)9月7日、家康は重陽の節句を祝うために、伏見城から大坂城の秀頼・淀殿母子のもとを訪れた。
しかし五奉行の一人・増田長盛の密告で、大坂城内で「家康暗殺計画」があることが露見したのである。
首謀者は亡くなった五大老の一人・利家の跡を継いだ前田利長、加担した者は大野治長・土方雄久、そして五奉行の一人・浅野長政であった。
彼らは密かに、大坂城内で家康を暗殺しようと目論んでいたという。
長盛の密告を聞いた家康は、ただちに本多正信・本多忠勝・井伊直政といった重臣を集めて、暗殺計画への対応を協議した。
その結果、伏見城から軍勢を呼び寄せて警護を万端整えて、大坂登城を予定通り行うことにした。
こうして無事に重陽の節句を終えると、家康は居所を伏見城から大坂城西の丸に移し、新たに天守を築いた。
家康が豊臣家の懐というべき大坂城西の丸に居所を移したことには、大きな意味があった。
家康は自らが秀頼と並び立つ存在であることを天下に知らしめ、豊臣政権下での地盤をしっかりと固めたのである。
もちろん首謀者であると疑われた面々は、許されることなく追及された。
前田利長を除く、大野治長は下総国に配流、土方雄久は常陸国に追放、浅野長政は奉行職を解職の上に家督を嫡男・幸長に譲り、国許の武蔵国府中に蟄居となった。
家康は彼らに重い処分を検討していたが、死罪を科さない寛大な措置に留めたのは、彼らが古くからの豊臣家の家臣だったためである。
つまり「豊臣家を必要以上に刺激しない」という配慮であった。
しかし家康は前田利長には強い態度で臨み、加賀・前田征伐の構えを見せた。
するとこれに怯えた利長が、母親・芳春院(まつ)を江戸に人質として差し出したために、出兵は取りやめとなった。
これを機に、前田家は完全に家康の支配下に組み込まれたのである。
会津征伐
石田三成・前田利長が失脚し、家康の政治的影響力が強まると、家康とよしみを通じる大名が日増しに多くなっていった。
しかし五大老の一人・会津120万石の上杉景勝だけは家康に従わず、領国に戻って城の築城や支城の改修、軍備の増強に力を入れ始めた。
家康は豊臣家の名を使い、景勝に対して「謀反の企みあり」と疑いをかけた上で上洛要求を行った。しかしこれに対して景勝の宰相・直江兼続が「直江状」によって家康の専横を糾弾したのである。
怒った家康は、ついに会津征伐(上杉討伐)を宣言した。
家康は周到な根回しを行い、後陽成天皇から出馬慰労としてさらし布100反を賜り、秀頼に謁見して軍資金2万両と兵糧米2万石を得た上で「豊臣家の忠臣である家康が謀反人の景勝を討つ」という大義名分を得た。
慶長5年(1600年)6月、関東の諸大名に対して会津征伐の陣触れを出し、6月16日に家康は大坂城から出陣した。
7月2日に家康は江戸城に入り、7月19日に嫡男・秀忠を総大将とする軍勢を会津に向けて派遣した。
7月21日、家康も江戸城から出陣して会津に向かった。
小山評定
7月17日、石田三成が大谷吉継や毛利輝元らを糾合して、突然挙兵した。
7月24日、家康は下野国小山にて、京都の鳥居元忠から「三成ら挙兵」の知らせを聞く。
今回の征伐軍は家康・秀忠父子と家康の家臣たち、それに福島正則・黒田長政ら豊臣恩顧の大名ら28将であった。
上方に妻子を留めている武将が多く、三成が妻子を人質にするのは必定である。三成が豊臣家のために「打倒・家康」を掲げて挙兵すれば、そちらになびく武将が多数出るはずである。
評定を開いて上方に味方する武将が多数出てしまっては家康に勝ち目はない上に、三成と戦う前に景勝の追撃を受ける恐れもあった。
猛将として知られる福島正則が「徳川殿に味方する」となれば、それに同調する武将が多くなる可能性が大だからだ。
長政は正則に対して「家康に味方して戦っても秀頼様に害が及ぶことはない、まして三成の存在は秀頼様のためにはならない」と説得に成功し、家康に加担する方向に見事に導いたのである。
7月25日、評定が行なわれ、状況説明と「妻子が人質となっている以上は各々の進退は自由である」との家康の意向が伝えられた。
そこで一番先に口を開いたのは、福島正則であった。
正則は「大坂のことはいざ知らず、わしは内府(家康)と共に三成らを討ち平らげると決めた!」と大きな声で自分の意思を語った。
秀吉子飼いの猛将として、数々の武勇で知られる正則の怒号は効果抜群であった。続いて長政が賛同の声を上げると諸将は「我も、我も」と続いたのである。
さらに掛川城主・山内一豊が「自分の城を家康殿に提供する」と申し出ると、東海道筋の武将たちは「拙者も」と居城の提供を申し出て、会津征伐軍は瞬時に家康の東軍へと変貌した。
ただ、三成に恩義のある美濃岩村城主・田丸忠昌だけは、この場を去って一人だけ西軍に味方をしたという。
家康は会津征伐を中止して軍を反転させ、目的を「三成討伐」へと切り替え、西に向かった。
江戸城に戻った家康は、全国の諸大名に東軍に味方をするようにと書状を送り、徳川の本隊である秀忠軍3万8,000の軍勢を、上田城の真田昌幸の抑えとして中山道を行軍させた。
おわりに
徳川本隊である秀忠軍3万8,000の軍勢は、上田城で真田軍の猛攻を受け、関ヶ原の戦いの本戦9月15日に遅参してしまう。
しかし福島正則らを始めとする東軍となった諸将らの活躍と、小早川秀秋らへの寝返り工作などで、たった一日で天下分け目の「関ヶ原の戦い」に勝利したのである。
秀吉亡き後のたった2年間で、家康は豊臣恩顧の武断派と文治派の対立を仲介し、武断派を味方につけて石田三成や前田利長らのライバルを追い落とし、秀頼をサポートするという大義名分を得て、天下分け目の戦いに勝利したのである。
家康は、優れた状況判断力と調整力、忍耐力を持ち、なおかつ用意周到で、機と見るや一気に動く速度と行動力をも持ち合わせていた傑物だったと言える。
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