時は天正10年(1582年)3月11日。甲斐国天目山(山梨県甲州市)で武田勝頼(演:眞栄田郷敦)とその嫡男・武田信勝(たけだ のぶかつ)が自害。ここに甲斐源氏の名門・武田家は滅び去ります。
初代・武田信義(のぶよし。鎌倉御家人)から信勝で18代目、その無念は察するに余りあるものでした。
【武田氏略系図】
武田信義-武田信光-武田信政-武田信時-武田時綱-武田信宗-武田信武-武田信成-武田信春-武田信満-武田信重-武田信守-武田信昌-武田信縄-武田信虎-武田晴信(信玄)-武田勝頼-武田信勝
武田家がどのように滅ぼされたのか、今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀)』の記述を紹介。外から見た武田の最期を、見届けたいと思います。
国中の犬猫までも伐て捨よ……信長の大号令
……十年信濃国福島の城主木曾左馬頭義昌は。かの義仲が十七代の末なりき。近年武田とはむすぼふれたる中ながら勝頼のふるまひをうとみ。ひそかに織田右府にくだり甲州の案内せんといへば。右府大によろこばれ。その身七万餘兵にて伊奈口よりむかはれ。其子三位中将信忠卿は五万餘兵にて木曾口よりむかはるゝよし聞えければ。 君も三万五千餘兵をめしぐせられ。駿河口よりむかはせたまふ。北條氏政も三万餘兵を以て武駿の口よりむかふべしとぞ定めらる。かくと聞て小山。田中。持船などいへる武田方の駿遠の城兵は。みな城を捨て甲斐の国へ迯帰る。 君の御勢は二月十八日浜松を打立て懸川に着陣す。十九日牧野の城(諏訪原をいふ。)に入せ給へば。御先手は金谷島田へいたる。右府は我年頃武田を恨ることふかし。今度甲州に攻いらんには。国中の犬猫までも伐て捨よとの軍令なりしが。こなたはもとより寛仁大度の御はからひにて。依田三枝などいへる降参のもの等は。志ろしめす国内の山林にひそかに身をひそめ時をまつべしとて。うちうち恵み賑はしたまへり。穴山陸奥入道梅雪はかの家の一門なりしが。是も勝頼をうらむる事ありしとて。彌生朔日駿河の岩原地蔵堂に参り 君に対面進らせ。御味方つかうまつらん事を約す。勝頼は梅雪典厩逍遥軒などいへる一門親戚にもおもひはなたれ。宗徒の家の子どもにもそむかれて。新府古府のすみ家をもあかれ出。天目山のふもと田野といふ所までさまよひ。その子太郎信勝と共にうたれたり。……
※『東照宮御実紀』巻三 天正十年「天正十年武田氏亡」
信濃国福島城(長野県木曽郡木曽町)を預かっていた木曾義昌(きそ よしまさ)は、源平合戦で名を馳せた木曾義仲(きそ よしなか)より17代とのこと。
武田信玄(演:阿部寛)の三女・真理姫(まりひめ。真竜院)を娶って武田の一門衆に加えられていたが、勝頼が遠江の高天神城(静岡県掛川市)を見捨てたことに前途を悲観。
加えて新府城(山梨県韮崎市)の造営負担や増税に苦しめられており、織田と内通して甲州征伐の道案内を買って出た。
信長は自身で兵70,000を率いて伊那口から攻め込み、嫡男の織田信忠(おだ のぶただ)に兵50,000を与えて木曾口より攻め込ませたという。
それを聞いた家康は援軍として兵35,000を率いて駿河口より攻め込むと、北条氏政(ほうじょう うじまさ)も兵30,000を率いて武蔵・駿河方面より攻め込んだ。
東西から挟み撃ちにされた遠江・駿河の武田兵はことごとく城を捨て、甲斐国へと逃げ帰った。織田の大軍に攻め込まれた信濃の武田兵も多くは逃げ去り、抵抗らしい抵抗もなく陥落する。
信長は「武田にはずっと怨みがあった。こたび甲州武田領へ攻め込んだ以上は、国じゅうの犬猫までも斬り捨てよ=降伏して絶対に許すな!」と命令していたが、寛大な家康は投降した武田の将兵をこっそり匿っておいたという。
そんな中、駿河を預かっていた穴山梅雪(演:田辺誠一)が3月1日に家康と密会・内通。梅雪は信玄の異父兄弟にして娘婿でありながら、甥であり義兄弟でもある勝頼が駿河を見捨てたことを怨んでのことであった。
一門衆にまで思い放たれ=見捨てられてしまった勝頼は新府城を追われ、父祖伝来の古府中(山梨県甲府市)も去って、天目山で父子ともども討たれた。勝頼37歳、信勝16歳。
武田の名を継いだ者たち
かくして滅び去った武田家。しかし家康はその英名を惜しみ、家督の存続を図りました。
まずは信玄の外孫に当たる梅雪の嫡男・穴山勝千代(あなやま かつちよ)に武田の家督を継がせますが、若くして亡くなってしまいます。
次に家康は自分の五男・松平信吉(まつだいら のぶよし)を勝千代の養子として武田信吉と名乗らせたものの、こちらも21歳で若死にしてしまいました。
武田宗家が断絶、さぁどうする家康……すると今度は勝頼の甥に当たる信道(のぶみち。信玄次男・海野信親の子)に武田の名跡を継がせたのです。
【武田家略系図・信玄以降】
武田信玄-武田勝頼-武田信勝=穴山勝千代(武田信治?)=武田信吉(断絶)
武田信玄-海野信親-武田信道-武田信正-武田信興-武田信安=武田信明(柳沢吉保の曾孫が養子入り)……
その子孫は令和の今日まで続いており、今も甲州の地に武田の遺徳を伝えています。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では武田の滅亡と再興をどのようにアレンジするのか、今から注目ですね!
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
- 柴辻俊六ら編『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年1月
- 瀧澤中『「戦国大名」失敗の研究 政治力の差が明暗を分けた』PHP文庫、2014年6月
- 平山優『武田氏滅亡』角川選書、2017年2月
- 本郷和人『徳川家康という人』河出新書、2022年10月
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