前編では、穴山梅雪の前半生と裏切りに至るまでの武田軍での経緯を解説した。
後編では、梅雪の裏切りとその理由について掘り下げていきたい。
武田勝頼との亀裂
梅雪は息子の勝千代に家督を譲り、天正8年(1580年)39歳で出家し「梅雪」と号した。
梅雪は沈みゆく武田家を支えようと奮闘した。その重要な仕事は他国との外交交渉であった。
特に隣国の家康とは、頻繁にやり取りを行なっていた。
しかし、こうして家康との接点が強くなったことが、梅雪や武田家の運命を大きく変えていくことになる。
梅雪は「いずれ攻めてくる織田と徳川から武田を守らなければ」と、武田家への忠誠心は変わらなかったが、当主・勝頼との間に亀裂が生じていくのだ。
その理由の1つは、前から決まっていた梅雪の息子・勝千代と勝頼の娘との婚姻が、勝頼の側近による讒言で破棄されたことだった。
これは、武田家御親戚衆筆頭格の梅雪から見れば、信じられない出来事だった。
もう1つは、織田・徳川連合軍と戦うことに反対する梅雪の進言を、勝頼が聞き入れずに決戦を望んだことだ。
梅雪は、諏訪家の血が入っている勝頼よりも、信玄の甥で娘婿である自分の方が秀でているという意識と自信があった。
そのため、年下の勝頼が自分の上に立ち、助言にも耳を傾けようとしないことに憤りを感じていたと思われる。
梅雪は「このまま勝頼様に任せておくと武田家は滅びる」と考えるようになっていった。
天正10年(1582年)2月、織田・徳川連合軍が武田領に侵攻する「甲州征伐」が始まった。強大な兵力を誇る敵を前に武田軍は動揺し、保身に走る者たちが続々と寝返っていった。
しかも2月14日、追い打ちをかけるかのように浅間山が噴火したのである。
当時、浅間山の噴火は東国の危機の前兆という言い伝えもあり、武田軍は戦意を喪失した。
2月28日、圧倒的に不利な状況の中、勝頼のもとに衝撃な報告がもたらされた。
それは「穴山殿寝返り」。梅雪が裏切ったというものであった。
梅雪はなぜ裏切ったのか?
梅雪が守っていた駿河の江尻城は、家康の領地・遠江との国境であり、防衛の拠点であった。
梅雪が寝返ったことで、家康は駿河の国に安々と入れるようになったのである。
なぜ、梅雪は武田家を裏切ったのだろうか?
「甲陽軍鑑」によると
「穴山殿一両年前より家康と内通あり」
と書かれている。
家康は外交交渉を重ねる中で、梅雪にこうささやいたという。
「武田は遠からず滅びる。そして梅雪が徳川方につけば、河内領と江尻領は安堵する」
このような条件をつけ、徳川方への寝返りを持ち掛けたのである。
梅雪は「武田を裏切る訳には行かないが、家臣や領民のことを考えればどうだろうか」と悩んだ。
更に家康は「勝頼亡き後、武田は穴山家が継承すべし」
と、梅雪が武田家を継承することを認めるとまで言ったのである。
家康は「三方ヶ原の戦い」で大敗したことから、戦いそのものよりも戦の前の下工作の重要性を痛感していた。
そのため、武田家の古くからの重臣である梅雪が寝返れば、武田家はバラバラになると考えたのである。
また、梅雪の「国衆」という立場も、裏切りを誘発したとされている。
河内領を支配している国衆の立場として
「衰退著しい武田家では、もはや自分の領土を守ってもらえない」
「勝頼様が亡き者になろうとも、我ら穴山が生き残れば、武田の血筋は絶えない」
と判断したと思われる。
甲州征伐の最中の2月中旬、梅雪は家康に「太刀・鷹一居・馬一疋」と側室となる美女2名を献上し、信長には黄金2千枚を献上し、完全に勝頼を裏切った。
御親類衆筆頭格だった梅雪裏切りの衝撃は計り知れないもので、裏切りを知った武田軍の諸将の多くが勝頼のもとから逃げ出したという。
その後、家康は武田領に侵攻する。その案内人を務めたのは武田軍の内情を知り、地の利を知っていた梅雪だった。
武田家臣団は雪崩を打つように逃げ出し、勝頼は居城を逃げ出したものの、追い詰められて天目山にて3月11日に自刃した。
梅雪が勝頼の死を知ったのは、その日の夜半のことだった。
その6日後に信長が諏訪に着陣し、梅雪は家康と共に信長に謁見を果たした。
信長は梅雪の領地である甲斐・河内領と駿河・江尻領を安堵した。
梅雪は「武田」を名乗ることを許され、徳川家に与力として仕えることになったのである。
梅雪の死の真相とは?
同年5月に梅雪は、信長への御礼言上のために家康に随行して安土城で信長と謁見した。
そして信長から上方見物を薦められ、家康と共に堺を遊覧していた。
その時に、歴史を揺るがす「本能寺の変」が起きたのである。
6月2日、明智光秀による謀反により信長が横死し、信長の嫡男・信忠も光秀に討たれた。
このままでは自分も危ないと思った家康は、急いで帰国の途についた。三河への最短ルート「伊賀越え」を決断し、危険な目に遭いながらも何とかその2日後には三河に帰還した。
梅雪も帰国しようとしたが、体調が悪かったことで家康から半日ほど遅れて別行動を取った。
ここで運命が分かれることとなる。
家康が助かったのは、茶屋四郎次郎や服部半蔵らの家臣が、逃走ルートの危険を排除しながらの移動だったからである。
しかし、梅雪にはそんな余裕はなかった。
梅雪は山城の国・田辺に差し掛かった時に、一説では落ち武者狩りに遭って命を落としたと言われている。(※宇治・田原で亡くなった説も)
梅雪42歳、勝頼の死からわずか3か月後であった。
ただし、「家忠日記」では自害、「信長公記」では一揆により生害(殺害、自害の両方の意味がある)されたとある。
おわりに
梅雪が亡くなった後、家康は武田家の旧臣たち(赤備え軍団など)を大量に召し抱えて徳川軍を強化した。
これによって徳川軍は常勝軍団となり、後に天下統一を果たすことになる。
梅雪の寝返りは、家康の天下取りを大きく後押ししたと言えるのではないだろうか。
梅雪没後、家康は梅雪の嫡男・勝千代を「武田信治」として武田家の当主としたが、その5年後に信治は死去してしまった。
そこで家康は、自分の五男・万千代を「武田信吉」として甲斐武田家の名跡を継承させ、武田信吉は後に水戸藩主となった。
信吉も早世したが、穴山家・武田家の旧臣たちは水戸徳川家に仕えることになったのである。
参考文献 : 甲陽軍鑑、信長公記
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