鳥居強右衛門とは
鳥居強右衛門(とりい すねえもん)とは、戦国時代の奥平氏の家臣で、長篠の戦いで有名になった足軽である。
「どうする家康」では岡崎体育氏が演じている。
長篠城が武田軍に包囲された時、援軍を求めるために岡崎城の徳川家康の元に赴き、その後、城に戻って援軍の到着を伝えようとしたが、武田軍に捕らえられて殺されてしまう。
しかしその忠義心は永く伝えられ、江戸時代の武士道バイブル『葉隠(葉隠聞書)』にもそのエピソードが記載されている。
出自
鳥居強右衛門の出自はほとんど不明であるが、三河国宝飯郡内(現在の愛知県豊川市市田町)で生まれたとされている。
彼は当初、奥平家の直臣ではなく、陪臣(又家来)として仕えていたという。
強右衛門が歴史の舞台に登場するのは、天正3年(1575年)の長篠の戦いの時だけであるが、この時点で36歳だったと推測されている。
徳川についた奥平氏
奥平氏は今川氏や織田氏、松平氏(徳川氏)など、所属先を転々としてきた国衆だったが、元亀年間中には甲斐武田氏の侵攻を受け、武田家の傘下となっていた。
しかし破竹の勢いで西上作戦を展開していた武田信玄が亡くなったことで情勢が大きく変わり、家康は奥平貞能・信昌親子に対して、徳川方に付くことを促したのである。
奥平氏はすぐには応じなかったが、家康は
・亀姫と信昌の婚約
・領地加増
・貞能の娘を本多重純に嫁入りさせる
という条件を提示した。
奥平氏はこの政略結婚に同意し、徳川方につくこととなった。
信玄が亡くなったことで武田家は求心力を失っており、貞能・信昌親子は奥平家存続のためには家康と結び付くことが得策だと考えたのである。
長篠の戦いの前哨戦
天正3年(1575年)4月、信玄の後を継いだ武田勝頼は、織田・徳川連合軍と雌雄を決するために、1万5,000の兵を率いて出陣した。
5月上旬、武田軍は奥平信昌が守る長篠城を包囲する。
包囲された奥平勢は、武田軍の猛攻に耐えながら籠城を続けていた。
しかしあと数日で落城という絶体絶命な状況となり、信昌は絶望的な状況から脱するため、最後の手段として岡崎城にいる家康へ使者を派遣し、援軍を求めることを決断した。
とはいえ、武田軍に囲まれた城から脱出し、岡崎城までたどり着き、援軍を要請するという試みはほぼ不可能に近かった。
このような状況の中で鳥居強右衛門は、自らこの危険すぎる役目を志願したのである。
命がけの援軍要請
強右衛門は、14日、夜闇に紛れて城の下水口から出発した。そして巧妙に川を潜り抜けることで武田軍の警戒の目をくらまし、包囲網の突破に成功した。
翌15日の朝、強右衛門は雁峰山から狼煙を上げ、脱出が成功したことを長篠城に伝えた。そして同じ日の午後には岡崎城に到着し、家康に援軍の派遣を要請したのである。
家康は「必ず助けに参る」と援軍に合意し、強右衛門は見事にこの危険な役目を成し遂げた。
この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、強右衛門はすぐに長篠城へ向かって引き返すことにした。
しかし5月16日、長篠城に成功を報告するための狼煙が、武田軍の穴山梅雪隊に発見されてしまったのである。
梅雪は「この狼煙は、長篠城に徳川方の援軍がくる合図だ」と察し、狼煙を上げた者を捕らえるように指示した。
強右衛門は農民に化けていたが、ついに武田軍に捕らえられてしまったのである。
磔にされる
梅雪は捕らえた鳥居を、武田勝頼の前に引き出した。
すると勝頼は
「長篠城に援軍は来ないと伝えよ!そうすれば思いのままの恩賞をとらす」
と、強右衛門に言いつけたのである。
そして強右衛門は磔にされた状態で、長篠城の仲間から見える場所まで引き出された。
しかし強右衛門は勝頼の言いつけを破って、長篠城に向かって
「援軍は必ずくる、あと3日待たれい!」
と大きく叫んだのである。
この命懸けの叫びを聞き、援軍が来ることがわかった長篠城の将兵たちの士気は、再び高まった。
しかし強右衛門は、そのまま武田軍に殺されてしまった。(死因にはいくつか説があるが、磔説が通説となっている)
奥平軍はそれに報いるように武田軍の猛攻に耐え抜き、籠城を続けた。
そして約束通り、織田・徳川連合軍が到着し、設楽原に陣を張ったのである。
その数3万、鉄砲の数は3,000丁だったとも言われている。
織田・徳川連合軍は馬防柵を設けて鉄砲隊を配置し、武田軍を迎え撃つ準備を固めた。
武田軍は本隊を設楽原に差し向けて対峙し、ついに5月21日「長篠・設楽原の戦い」が始まったのである。
そして武田軍は敗北し、この敗北は武田氏滅亡の大きなきっかけとなる。
最後に
鳥居強右衛門の忠義心は織田信長にも感銘を与え、信長は強右衛門の墓を建立させたと言われている。
鳥居強右衛門の墓は、愛知県新城市にある新昌寺と甘泉寺に存在している。
新昌寺は、長篠の戦いで武田軍に捕らえられた強右衛門が、城に向かって援軍の到着を伝えた場所の近くにあり、甘泉寺は、強右衛門の妻の出身地で、強右衛門の亡骸が移された場所である。
どちらの寺にも、織田信長が建立させたと伝えられる五輪塔がある。
強右衛門の子孫は、代々鳥居強右衛門の通称を受け継ぎ、奥平氏の家臣として仕えたという。
強右衛門は絵画や歌舞伎などの作品でも題材とされている。
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