天正7年(1579年)8月29日、徳川家康(とくがわ いえやす)の正室・築山殿(つきやまどの。瀬名)が夫の命により処刑されてしまいました。
また同年9月15日、家康の嫡男・松平信康(まつだいら のぶやす)も、父の命により自刃させられてしまいます。
いわゆる「築山殿事件」の原因は、二人が武田勝頼(たけだ かつより)に内通していた容疑でした。
どうしてこんな事になってしまったのか……今回は『松平記』より、築山殿事件のいきさつをたどってみたいと思います。
目次
結婚後、間もなく家康と離れ離れに
一 三良殿御母儀ハ関口刑部殿御女今河家ニテ 家康御若輩ノ時分ヨリノ本御臺之……
……然ニ人質トソ久御座候間ニ 家康御目カケアマタ出来御子達多御座候間……
【意訳】三郎(信康)殿の母上・瀬名は、関口氏純(せきぐち うじずみ)の娘であった。
今川一族に連なる者として、若き家康に嫁いだ。そして永禄2年(1559年)に信康を産んでいる。
やがて家康が永禄3年(1560年)に独立すると、瀬名は今川の人質として留め置かれることに。
その間、家康は多くの妾(目をかけた女性)を作り、たくさんの子供をもうけていた。
せっかく再会できたのに……
……御臺三河ヘ御座候而後ハツキ山ト申処ニ置被申テ内々御中不和ニ成玉ウ……
……此御前常ニ被仰ハワレコソ本ノ妻ニテ三良殿御母之其上我父ハ家康ノタメニ命ヲ失ヒし人ナレハカタく我コソ賞翫ニアツカリナント思ヒしニカリスサメラレ無念ナルトテ常ニハ色々ヲソロしキ事仰ラレテ御腹立有しトカヤ……
【意訳】やがて三河へ招かれ、家康との再会を果たした瀬名。
しかし既に妾たちがいる岡崎城へは入れてもらえず、築山という城下のはずれへ追いやられてしまう。
そんな扱いを受ける内、次第に夫婦仲は悪化していった。当たり前である。
私は正室なのに……三郎の母親なのに……瀬名は日々恨みを募らせた。
私の父が、誰のせいで死んだと思っているのか……少しは可愛がってくれてもいいじゃない。それなのに、それなのに……。
家康に顧みられず、瀬名の恨み言は日に日に恐ろしく、ヒステリックになっていった。
瀬名にいびられ、信康からDVを受けた?五徳
……其比三良殿御前御子ヲモウケ玉ウ女子ニテ御座候間三良殿モツキ山殿モサノミ御ヨロコヒナし……
……其後又御子出来是又女子ニテ御座候間三良殿モ築山殿モ御立腹有是ニ依テ御前ト三良殿ト御中不和ニ成玉ウ……
……其時分三良殿物荒御振舞ヒトカタナラス……
【意訳】そのころ、信康の妻・五徳(徳子、徳姫)が子供を産んだ。しかし女子(登久姫)だったため、信康と瀬名はあまり喜ばなかった。
その翌年、五徳がまた子供を産んだが、やはり女子(国姫、熊姫)。
「何で女の子ばかりなんだ!」
信康と築山殿は怒り出し、五徳を責めた。それで信康と五徳の夫婦仲は険悪になっていった。当然である。
そのころ、信康の物荒き振る舞いは尋常(ひとかた)ならぬものであった。となれば当然、妻子にだけは優しく紳士であったとは考えにくい。
五徳母娘に対して、いわゆるDVなどが行われた可能性もある。
滅敬と不倫の末、武田勝頼に内通する瀬名
……扨又御母築山殿モ後ニハメツケ井ト申唐人ノ医師ヲ近付テ不行儀ノ由沙汰有……
……アマツサヘ 家康ヘ恨有テ甲州敵ノ方ヨリヒソカニ使ヲ越御内通有縁ニ可付トテ築山殿ヲ後ニハ迎取可申ノ由風聞ス……
【意訳】さて、一方で瀬名は滅敬(メツケ井)なる唐人の医師を招き入れ、不倫していたと言う。
とんでもない話ではあるが、これは彼女をちゃんと愛さない家康が悪いのである。
以来、瀬名は滅敬を介して甲州の武田と内通。
「徳川を滅ぼしたら、きっとあなたをお迎えしますからね」
「えぇ……」
いわゆる逆ハニートラップに自ら飛び込んだ瀬名は、いつか愛情に包まれる日を夢見るのであった。
言うまでもなく、そんな動きは周囲に筒抜けである。
五徳の書状
……誠ニ不行儀不大形剰御子ノ三良殿ヲモソヽノカし逆心ヲスヽメ給ハント聞ヘし 家康ヨリモロモロ異見有しヲ用不給後ニハ御中悪敷成玉ウ……
……三良殿ノ御前其比三良殿御中アしクヲワしケレハ此由一書ニ被成御父信長ヘツカハサルヽ……
……先第一ハ御鷹野場ニテ出家ヲしハリ殺給フこと又踊悪トテ弓ニテ町ノ踊子ヲ射給フこと其外荒御振舞 家康ト御フしンノこと人ノ申ヨリヌキテ仰ツカワサルヽ御母儀ノ不行義又ハ甲州方ヨリ唐人ヲメしヨセ御謀叛ノ沙汰有こと……
【意訳】まったくけしからん話である。三郎までそそのかしおって……家康はあれこれと瀬名を叱りつけたが、まったく聞く耳を持ってくれない。これは家康の自業自得である。
それで当然のごとく家康と瀬名の夫婦仲は険悪になったという。と言うか、まだ険悪になる余地があったことに驚いてしまう。
一方信康から責められ、DVまで受けていた?五徳はもう耐えきれず、父・織田信長(おだ のぶなが)に書状を送った。
信康が鷹狩の帰りに僧侶を縛り殺したこと、面白半分に町人を射殺したこと、粗暴な振舞いで家康を困らせていること、瀬名が不倫していること、そして武田と謀叛を共謀していること……などなど。
驚く信長に対し、信康をかばえない二人
……イロイロ細ニ被遊岐阜ヘ御越有信長驚給ヒ浜松ヘ御使有テ酒井左衛門尉大久保七良衛門ヲ呼テ三良殿ヘ内々酒井ヲ初テ皆々家老衆数度異見有しカ共用不給……
……其比酒井共大久保共三良殿不快ニテ御座候時分ナリし間信長御腹立チ様ノ悪人ニテ 家康ノ家ヲ何トソ相続アラン後ニハ必家ノ大事トナラントイカリ給フ……
……両人ノ者共爰ニテ申分ヲイタし何様ニモ陣■ニ及ナラハ是程ノ大事ニ及マしキニ日頃三良殿ト中悪クテ両人ナカラアキハテ尤御意ノ通大悪逆人ニテ御座候御前ノ御恨尤之ト申……
【意訳】娘の書状に驚いた信長は、徳川家中でも信頼している酒井忠次(さかいただつぐ)と大久保忠世(おおくぼ ただよ)を呼び、真偽を訊ねた。
彼らも信康には度々諫言してきたが、一向に聞き入れてはくれなかったということである。
酒井・大久保の二人は「織田様のご心配どおり、三郎様が家督を継がれたら、必ずや一大事となりましょう」と答え、信長と共に頭を抱えた。
「我らもこれまで随分とお諌めして来ましたが、少しでもお聞き入れ下されば、こんな事にはなっていなかったでしょうに……」
酒井・大久保の二人は半ば諦めの表情で、五徳に同情したのだった。
信康の切腹
……家康も御腹立有然ハ生害ノ及ヘキトノことニテ天正七年八月朔日信長ヘ此由被仰上信長モ内■御腹立ノことナレハ如何様ニモ存分次第ト御返事有テ 家康岡崎ヘ御越有三良殿ヲ大浜ヘ出し被申岡崎ヘハ本多作左衛門ヲ移し玉ウ……
……三良殿ハ当座ノ御勘気ト思召ケルニ 家康ハ西尾ノ城ヘ御座候而三良殿ヲハ遠州堀江ヘウツし奉リ同九月十五日遠州二俣ニテ生害しタマウ……
【意訳】事ここに至って家康も両名の処断を決意する。
かくして天正7年(1579年)8月、信長に報告すると「両名をどうしようが、徳川殿のご自由に」との返事。
そこで家康は信康を岡崎城主から解任し、本多作左衛門(ほんだ さくざゑもん。本多重次)を城代とした。
信康は「どうせすぐ赦されるでしょ」とタカをくくっていたが、遠州二俣城に身柄を移送される。そして9月15日に切腹させられたのであった。
瀬名の怨霊
……御母築山殿モ日頃ノ御悪逆アリしトテ同生害ニヲヨフ然ニ御カイしヤク申タル岡本平右衛門石川太良左衛門皆御罰アタリ或ハカツタイニ成アルイハ子孫皆キラレナトソ一人モスナヲナルワナし後ニツキ山殿ノヲンリヤウトテヲソロしキこと限ナし平左衛門子岡本大八ハ 家康小性ナリシカ盗ヲしテハタモノニアカリカレラカ兄弟女子迄モツキ山殿ノヲンリヤウトテイロイロフしキノこと共有テミナ罰し殺し給フトキコヘし
【意訳】瀬名も日ごろの悪逆三昧の報いとして、信康と同じく自刃させられた。彼女を介錯(斬首)した岡本平右衛門(おかもと へいゑもん)と石川太郎左衛門(いしかわ たろうざゑもん)の一族はことごとく罰が当たったという。
これは瀬名の怨霊に違いないと人々は大いに恐れた。平左衛門の子・岡本大八(だいはち)は家康の小姓であったが、彼の一族は罪を得て兄弟や女子供に至るまで処刑されたという。これも瀬名の怨霊ということである。
終わりに
以上、『松平記』が伝える築山殿事件を紹介してきました。瀬名の処刑と信康の切腹が時系列的に前後していましたね。
家康が瀬名を顧みなかったため、寂しさのあまり滅敬と通じてしまったのが原因のようです。
もちろん謀叛を起こし、信康をそそのかした瀬名が悪いのですが、謀叛に走らせてしまう家康も家康。もう少し日ごろからコミュニケーションをとっていれば、充分に防げたヒューマンエラーと言えるでしょう。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、瀬名と信康がどのような最期を迎えるのか、心して見届けたいものです。
※参考文献:
- 高知県立図書館『松平記』国文学研究資料館
この記事へのコメントはありません。