NHK大河ドラマ「どうする家康」皆さんも楽しみに観ていますか?奇遇ですね、筆者もなんです。
さて、第32回放送「小牧・長久手の激闘」では徳川家康の王業を支える名臣「徳川四天王」が紹介されていました。
ナレーション「徳川四天王、残るお一人がこのイカサマ師……ではなく。頼れる大黒柱、酒井忠次でございます」
※NHK大河ドラマ「どうする家康」第32回放送「小牧・長久手の激闘」より
この回を見ていると、他の榊原康政・本多忠勝・井伊直政に比べてあまり武勲を立てていない印象でしたが、決してそんな事はありません。
という訳で今回は、小牧・長久手の合戦において活躍した酒井忠次のエピソード(大河ドラマ第31回放送「史上最大の決戦」相当部分)を紹介したいと思います。
一、ひとへに汝が計策によるべし……家康に託された勝利の使命
……十二年織田信雄、豊臣太閤と合戦にをよぶにより、東照宮、信雄の御加勢として軍を出したまふのとき、忠次に仰ありけるは、国家の安危この一挙にあり。ひとへに汝が計策によるべし。忠次敢て辞するところなく、臣年老たりといへども、かたじけなき鈞命をかうぶるうへは、他に譲るべきにあらず。忠次先手にむかふならば、百万の敵といふともおそるゝにたらず。謀をめぐらして必捷を献ずべしと言上す。……
※『寛政重脩諸家譜』巻第六十五 清和源氏(義家流)酒井
時は天正12年(1584年)、織田信雄(おだ のぶかつ。信長次男)が羽柴秀吉(はしば ひでよし。豊臣秀吉)と合戦に及んだ際、家康は信御に加勢しました。
「よいか左衛門尉(忠次)。国家の興廃はこたびの一戦にある。その勝利は、そなたの戦略こそが恃みぞ」
大任を託された忠次は謹んでこれを受けます。
「お任せ下され。忝(かたじけな)くもこの老いぼれに鈞命(きんめい。主君の命令)を賜わった以上、必ずやご期待にお応え申す。それがしが先手(先鋒)を務めたならば、たとい百万の敵とて恐れるに足りませぬ。神算鬼謀をめぐらし、必ずや殿に勝利を献上いたしましょう」
ちょっとセリフが長いのは、お年寄りあるあるか、あるいは国家を背負った意気込みなのか……いずれにしても、ここ一番で最も頼りにされている左衛門尉。
さて、忠次がどんな戦いを演じるのかと言いますと……。
ニ、敵の先陣・鬼武蔵こと森長可を奇襲で撃破
……三月十七日、太閤の先手森武蔵守長可、三千餘騎にて羽黒に陣す。忠次これをきゝ、かの長可は三左衛門可成の子にして、其名諸人に超、堅きを破り強きを碎く。世こぞつて鬼武蔵と称す。今先手にあり。後陣いまだつかざるさきにかれを討破りて、遠三の士の武勇を、京家の人々にしらしむべしと言上す。東照宮これをゆるしたまふ。忠次やがて諸将を率ゐて犬山表に発向し、楽田、羽黒、五郎丸辺の民屋に放火し、長一がまもれる羽黒八幡の砦を三方より攻うつ。長一さゝふる事あたはず、美濃国に敗走す。忠次が兵追討して首三百餘級を得たり。……
※『寛政重脩諸家譜』巻第六十五 清和源氏(義家流)酒井
天正12年(1584年)3月17日、秀吉方の先鋒・森長可(もり ながよし)は3,000騎を率いて羽黒に陣をしいていました。
その報せを受けて、忠次は家康に進言します。
「森武蔵守はかの三左衛門(さんざゑもん。森可成)の嫡男にて、その武名は織田家中でも群を抜いておりました。堅きを破り強きを砕く、その強さゆえ世の人々は彼を鬼武蔵と呼んでおります。此度の戦さでも先手を務めておるようです。後から敵の増援が合流する前に奴を討ち払い、上方の連中に遠江・三河武士の精強さを思い知らせてやりましょうぞ!」
……うーん、相変わらずセリフが長いですね。放っておくとまだまだ語りそうなので、家康は出撃を許可しました。
忠次は勇みたって諸将を率い、羽黒八幡に布陣した森長可を急襲。道中の家々に火を放って気勢を上げ(住民にとってはいい迷惑ですが)、背後から三方を包囲して攻めかかりました。
「すわ、敵襲っ!」
さすがの鬼武蔵も不意を衝かれては持ちこたえられず、たちまち総崩れとなって美濃国へ逃げ帰ります。
「この機を逃すな、追え!追え!」
忠次は執拗に敵を追撃、果たして300を超える首級を上げる大戦果を勝ち取ったのでした。
終わりに
以上、小牧・長久手の合戦(羽黒の合戦)における酒井忠次の武勇伝を紹介してきました。
この後も羽柴軍との戦いで活躍する忠次。決して単なる「海老すくい」おじさんではないのです。
徳川家の大黒柱として、これからも忠功を重ねる左衛門尉。NHK大河ドラマ「どうする家康」では、大森南朋の熱演に期待しています!
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第1輯』国立国会図書館デジタルコレクション
- 『NHK大河ドラマ・ガイド どうする家康 後編』NHK出版、2023年5月
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