家康の交渉術について
徳川家康の性格を表す川柳は、誰もが知っているだろう。
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす」
家康は62歳で江戸に幕府を開いが、その人生は危機の連続だった。
豊臣秀吉と戦った「小牧・長久手の戦い」では、初戦を勝ったことで逆に大軍に攻め込まれそうになった。
天下を二分した「関ヶ原の戦い」では、東軍の多くが豊臣恩顧の大名でいつ寝返ってもおかしくなかった。
幕府を開いた後も、スペインやポルトガルが日本に力を及ぼそうと様々な策を仕掛けて来たために、難しい判断を迫られた。
こうした危機を乗り越えて家康が天下人になれたのは、「状況を見極める目と交渉力を持っていたから」と話すのは東洋大学の柴裕之先生である。
家康の根本は「いかに生き残っていくのか」にあるという。
家康の交渉術の肝は「自ら動かず相手を動かす」そして「話を注意深く聞き、決断するとぶれない」だと言われている。
今回は、信長と同盟を結び、秀吉に頭を下げながらも天下人の座についた家康の交渉術について掘り下げていきたい。
小牧・長久手の戦い
家康と秀吉が唯一直接戦ったのが「小牧・長久手の戦い」である。
この戦いの初戦で徳川軍は、秀吉軍の池田恒興と森長可という名だたる武将を討ち取って勝利を収める。
形勢逆転を狙う秀吉は、家康と手を結んでいた織田信雄に交渉を持ちかけ、和睦を成立させた。
これによって織田家(信雄)を助けるという大義を失った家康は、兵を引かざるを得なくなった。
しかも関白の立場を利用して有力大名から人質を取っていた秀吉は、家康にも人質を差し出すように迫った。
『武徳大成記』によると、家臣たちが「諸国の大名と同じようにする必要はない」と反対したところ、家康も「自分も同じ考えである」と答えたという。
戦で豊臣軍を破った家康と家臣たちは「我々は他の大名とは違う」という自負があったのだ。
しかし、半月後に事件が起きた。
家康の重臣・石川数正が秀吉のもとに出奔してしまったのである。
秀吉が人質を要求した時に、数正は「秀吉殿はいずれ天下人になるお方、要求を飲まれた方が良いのではないか」と意見していた。
時勢を呼んでお家のために言ったことだったが、逆に秀吉に内通していると疑われ、居場所を失った数正は秀吉のもとに走った。
数正から徳川軍の情報を得た秀吉と戦えば、負ける可能性が高い。
家康はこの状況の打開に知恵を絞った。
自ら動かず相手を動かす
最初に動いたのは秀吉だった。
三河攻めの前線基地となる大垣城に、大量の兵糧を運び入れたのである。
これに対し家康は、尾張の国境に陣地を構築した。
そして、両者が雌雄を決しようとした天正13年(1585年)11月29日、尾張や近江一帯を大地震が襲った。
この天正大地震は、家康を救うことになる。
秀吉が先陣に想定していた尾張や近江の武将たちは大きな被害を受け、大垣城も大被害を受けてしまったのである。
秀吉は地震の影響により、武力による討伐から「和睦」へと方向転換せざるを得なくなった。
翌年の1月、さっそく秀吉は家康に揺さぶりをかけた。
「小牧・長久手の戦い」で、家康と同盟を結んだ織田信雄を使者にして、和睦を迫ったのである。
しかし、家康は簡単には動かなかった。
家康は「徳川家と羽柴家が縁戚関係を結んだうえ、あくまでも臣下として平伏しない形ならば上洛しよう」と返答したのだ。
この当時、秀吉は武力で家康を討伐することはできたが、まだ関東や奥州への影響力は十分ではなかった。
関東の北条氏政は、家康と手を結んで秀吉と敵対していた状況だった。秀吉は「関東や奥州に進出するには家康を使った方が合理的だ」と考えていた。
一方で家康は「秀吉は自分(家康)の立場を認めざるを得ないだろう」と考えていた。
その後、秀吉は自分の妹・朝日姫を無理やり離婚させ、正室を失くしていた家康に嫁がせた。
こうして秀吉は望み通り義兄弟となった家康に再び上洛を求めたが、それでも家康は動かなかった。
秀吉の使者に対して、家康は「上洛中の身の安全を何を持って確約されるおつもりなのか。それが分からないうちは家臣たちが許さない」と返答したのだ。
変わらない家康の態度に剛を煮やした秀吉は、なんと老いた自分の母・大政所を、朝日姫を訪ねるという名目で家康のもとに人質として差し出した。
こうして家康は、秀吉の最大の譲歩を引き出したうえで、大坂に向かったのである。
秀吉との対面の前夜には、お忍びでやって来た秀吉の酌で酒を飲み、更には秀吉の弟・秀長と同じ正三位権中納言に叙任された。
家康は自ら動かず相手を動かす交渉術で、豊臣政権下において秀長に次ぐ地位を得ることに成功したのだ。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)7月25日、会津の上杉征伐に向かう途中で石田三成の挙兵を知った家康は、軍議を開いた。
世に言う「小山評定」である。
この時、家康が特に気にしたのが福島正則ら豊臣恩顧の大名たちの去就だった。
豊臣恩顧の大名たちが家康に味方すれば、大坂に残した妻子が石田方に殺される可能性があるからだ。
この時、福島正則が「家康のため、妻子も自分の命も投げ出し味方する覚悟である」と言ったことで、他の武将たちも家康側についた。
翌日、家康は福島正則ら豊臣恩顧の大名たちを上方に向けて出発させる。
その一方で家康は、上杉の動向を見極めると言って江戸に戻った。
福島正則や黒田長政ら東軍が陣を置く清須城のそばには西軍の織田秀信が守る岐阜城があり、その西にある大垣城には石田三成が入城し、互いに睨み合う形となった。
ところが家康は、一向に江戸から動こうとはしなかった。
しびれを切らした福島正則が出陣を急かす使者を送っても、明確な返事が来なかった。
8月19日、福島正則は、家康の使者に「戦う気があるのか!」と詰め寄ったところ、使者は「あなた方が動こうとしないから出陣されないのです」と返答した。
すると福島正則は「数日お待ち下され」と返答し、その翌日に岐阜城に攻め込んで4日で落城させた。
これによって福島正則ら豊臣恩顧の大名たちが徳川方についたと確信した家康は、9月1日に江戸を出発して福島たちと合流した。
そして9月15日、関ヶ原の戦いで西軍を破って天下人となったのである。
この時も、家康は自ら動かず相手を動かす交渉術を活用している。
話を注意深く聞き決断するとぶれない
「関ヶ原の戦い」の約半年前、オランダ船のリーフデ号が豊後国に漂着している。
その船には大砲や鉄砲、火薬などが大量に積まれていた。
家康はこれらを入手し「関ヶ原の戦い」で使用したとも言われている。
16世紀半ばの大航海時代、スペインとポルトガルは宣教師によるキリスト教の布教と貿易を通して、世界を二分するほどの強い勢力を誇っていた。
そこに新興国のイギリスやオランダが登場し、日本はその狭間で翻弄されることになる。
リーフデ号に乗っていたウィリアム・アダムスから話を聞くまで、家康はイギリスやオランダという国が存在することも知らなかった。
日本との貿易を独占したいスペインとポルトガルの宣教師たちは「ウィリアム・アダムスたちは海賊なので追放するように」と家康に進言していた。
しかし、ウィリアム・アダムスは「自分たちの目的は貿易を行なって、日本と友好な関係を築くことだ」と訴えた。
その後も、スペインとポルトガルの宣教師たちは家康に「ウィリアム・アダムスたちを処刑しないと、オランダやイギリスの海賊たちが日本に押し寄せて大変なことになる」と言い続けていた。
しかし家康は、ウィリアム・アダムスの話をじっくりと聞き、40日後に彼らの処分を決定した。
それはウィリアム・アダムスらを釈放するということだった。
家康が考えたのは「色々な国と友好関係を結んで国際貿易を活発に行うこと」だった。
そして家康はウィリアム・アダムスを気に入って、外交顧問にした。
慶長14年(1614年)家康とウィリアム・アダムスが待ち望んでいたオランダ船2隻が、平戸に入港した。
家康は「オランダ船は日本のどの港にも入港できる」と書いた朱印状を与え、今後も日本に往来するようにと命じた。
朱印状の発行に異議を唱えたのは、スペインとポルトガルの宣教師たちだった。
彼らはこの時も「オランダ人は海賊で日本から追放すべき」と主張し、オランダと日本の貿易を妨害しようした。
しかし、家康は「日本は全ての異国に対し開かれている。オランダ人とも貿易をするつもりである」「スペイン・ポルトガルとオランダの戦争は日本とは関係がなく、あなたたちの国で決着すべきだ」と伝えたのだ。
日本におけるスペイン・ポルトガル・オランダの争いは、慶長19年(1614年)から始まった「大坂の陣」で決着がつくことになる。
キリスト教徒の武士たちが豊臣秀頼に味方し、それを知ったスペインとポルトガルの宣教師は大坂城に入った。
一方、オランダは家康に味方し、家康がイギリス製の大砲を購入するのを仲介した。
「大坂夏の陣」で豊臣家を滅亡させた家康は、敵方についたスペインとポルトガルの宣教師たちを国外に追放した。
鉄砲伝来から続いたスペインとポルトガルとの関係は、ここで途絶えることになった。
その一方で、家康は自由貿易を唱えるオランダとの関係はぶれることなく維持していた。
こうして日本はオランダを通じて、幕末まで西洋の知識や貿易品を手に入れることができた。
家康は、話を注意深く聞き、決断するとぶれない交渉術を活用している。
おわりに
徳川家康という人物は、考えに考え、決断すると方向性がぶれなかった。
「自ら動かずに相手を動かす」「話を注意深く聞き決断するとぶれない」という交渉術は、家康の長年の苦労や失敗から培われてきたものだろう。
参考 : 武徳大成記
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