大正&昭和

『日本初のストリップはヌード芸術だった』男たちを熱狂させた15秒の「額縁ショー」とは

インディペンデント映画でありながらアカデミー賞5冠に輝いた映画「ANORA アノーラ」は、ニューヨークのストリップダンサーが主人公の物語だ。

ストリップといえば、昭和の頃には会社の慰安旅行のお楽しみとして旅程に組まれたりしたものだが、最近はほとんど耳にすることがなくなった。

すでにオワコンと化した感のあるストリップが、日本で初めて上演されたのは昭和22年新宿帝都座の「額縁ショー」だと言われている。

「額縁ショー」は大きな額縁の中に半裸の女性をおさめ、名画と同じポーズをとらせるという趣向で話題となり、連日劇場の周りを長蛇の列が埋め尽くすほどの活況を呈した。

荒廃と新生の息吹が入り交じる終戦直後の東京で、男たちが求めた「額縁ショー」とは、いったい誰がどんな意図をもって初めたのだろうか。

本邦初のストリップ・「額縁ショー」に迫ってみたいと思う。

額縁ショーとは?

画像 : 人気沸騰の額縁ショー(1947年)林忠彦撮影 public domain

・上演時間はわずか15秒

昭和22(1947)年1月5日、敗戦から2年目の正月を迎えた東京・新宿の帝都座小劇場で、『名画アルバム』と題したショーが幕を明けた。

モダンダンスや歌、コントなどが盛り込まれた27景のショーの中で、最も観客たちの目を引き付けたのは、その中の1景、わずか15秒のヌードショーだった。

『ビーナス誕生』という題名のヌードショーは、上半身を露わにした女性が巨大な額縁の中におさまり、名画さながらのポーズをとって静止しているというものだった。

幕が下りるまでの時間は、わずか15秒。その間、観客は息を止め瞬きもせず額縁の中の女性を食い入るように見つめていたという。

・健康的な肉体美で観客をくぎ付けにした甲斐美和

当時は女性が人前で裸体をさらすなど絶対に許されない時代であり、出演者選びは難航を極めた。

第1回目は腰や胸をベールで隠すという条件で、日劇ダンシングチームの中村笑子が出演したが、それでも大きな話題となった。

その後、ダンサーとして入団してきた甲斐美和が自ら手を挙げ、半裸での出演を承諾する。当時18歳だった甲斐は、長身で健康的な肉体美をもった女性だった。

『名画アルバム』のプロデューサー・秦豊吉は、甲斐美和についてこう回想している。

「この人は身長もあり、立派で健康で、処女らしい肉体の美人で、肌の色は雪のように白くとはいきませんが、照明を工夫しましたから、肌の色は実に美しく、惜しげもない豊麗な乳房は、金と黒の額縁の中で、見物の目を集中させました。最初の記念すべき黒いカーテンを開いて、ほんの四、五秒、あっという間もなく、再びそれを閉じた時は、場内は実にシンとして、見ている私達もほっとした次第でした。」

引用『世界評論』昭和26年4月号

ヌードショーの噂はたちまち広がり、わずか数秒、微動だにしない裸の彼女をひと目見ようと、連日劇場には定員の5倍の2000人が詰めかけたという。

この名画の一場面を切り取ったヌードショーは「額縁ショー」といわれ、本邦初のストリップとして名を残すことになる。

「額縁ショー」のプロデューサー・秦豊吉とは

画像 : 秦豊吉 public domain

秦豊吉は、明治25年(1892)1月14日、日本橋で生薬問屋「専治堂」を営む両親のもとに生まれた。

長男である豊吉は府立一中から第一高等学校、東京帝国大学へと進み、一高時代の同期には芥川龍之介、久米正雄、土屋文明、山本有三といった錚々たるメンバーが名を連ねている。

特に芥川龍之介は親友であり、秦の著作『文芸趣味』に、次のような序文を寄せている。

「はた-とよきち(名) 秦豊吉、帝國大學獨逸法律科ヲ卒業シタル三菱會社員兼素人賣文業者。本職ノ手腕ハ知ラザレドモ、文章ノ才ハ一家ヲ成スニ足ルモノアリ。同窓ノ友久米正雄、芥川龍之介等、皆ソノ才ニ推服ス。叔父ニ名優松本幸四郎アリ。以テソノ風貌ヲ想見スベシ。大正十三年四月二十八日 芥川龍之介記」

秦豊吉著『文芸趣味』より引用

豊吉の叔父の7代目松本幸四郎は、5歳で秦家を出て藤間家の養子となっており、実母にあたる豊吉の祖母が存命の頃は、ちょくちょく秦家にやって来ては芝居の話をしてくれたそうである。

帝大卒業後は三菱商事勤務の傍らドイツ文学や演劇の研究に没頭し、翻訳を手掛けた「西部戦線異状なし」は、当時のベストセラーとなった。また本名以外に「丸木砂土」のペンネームで、随筆や小説なども発表している。

昭和8年、三菱商事を辞め東京宝塚劇場に転職した秦は、プロデューサーとして日劇ダンシングチームを育成するなど辣腕ぶりを発揮し、昭和15年には代表取締役社長に就任した。

終戦後は、公職追放で東宝の経営から一度退くものの復帰が叶い、帝都座で「額縁ショー」をプロデュースすることになる。

この時、55歳になっていた。

秦豊吉が「額縁ショー」で目指したもの

画像 : 東郷青児 public domain

終戦から2ヶ月後の昭和20年10月、早くも劇場が復活した。

焦土と化した東京で敗戦の傷を抱えながらも、人々は娯楽を求めていたのである。

しかし、終戦直後の芝居やレビューは旧態依然とした出し物ばかりで何一つ新鮮なものがなく、秦豊吉はパリやニューヨークの美しいナイトクラブで演じられていた小粋なショーを思い出していた。

彼は、一面焼け野原になった東京で、しかも新しい息吹が芽生え始めた新宿で、観客を驚かせるような新しいショーを根づかせてみたいという野心をもっていた。

闇市を眼下に望む新宿・帝都座5階小劇場の出し物は、大人が楽しめるバラエティーショーに決まり、そこでヌードを出したいと考えた。
欧米で多くのヌードショーを見ていた秦にとって、ヌードは美しく崇高なものだったのだ。

しかし、ここに一つ問題があった。残念ながら日本女性の肉体は胴長短足で美しいとはいえず、下手に踊ると下品で猥褻な感じになってしまう。

戦前極端に抑圧されていた性表現が、戦後アメリカ民主主義の導入で解禁されたとはいえ、まだまだ風俗壊乱の問題は大きく、すべてが許されるわけではない。

そこで、女性の美しい体を美しいまま見せるために考え出されたのが、一切体を動かさず美女が絵画の一部を演じる「額縁ショー」だったのだ。

『名画アルバム』は、美しい肉体美をもった女性を発見し、単なるエロではなく芸術的なヌードショーにすることが目標となった。スタッフには二科会の重鎮・東郷青児が名を連ね、演出はモダンダンスのパイオニア・益田隆が行った。

名画は国内外から選ばれたが、岡田三郎助の『海辺裸婦』は最も成功した作品だったという。

「額縁ショー」の終焉

画像 : 帝都座入口『建築写真類聚』より引用

額縁の中のアイドルとして名を馳せた甲斐美和が、親の反対によって出演を辞退すると、後釜にダンサーの片山マリがおさまり、彼女もまた評判となった。

「額縁ショー」は秦が予想したよりもはるかに上を行く勢いで広まり、同じようなショーが各地で上演されるようになる。しかも演者は額縁から出て手足を動かすようになっていた。

しかし、美しい肉体美をもった女性が数秒静止した「額縁ショー」と違って、胴長短足のお世辞にも美しいとはいえない女性が安っぽいダンスを踊るのは、いかにも生活のためにやっているという感じがしてしまう。
そんなストリップショーのほとんどが芸術からは程遠いと、秦は思ったという。

だが秦の嫌った生活感丸出しのストリップは、さらなる刺激を求める観客の間でまたたく間に広がり、帝都座の「額縁ショー」の人気に陰りが見え始めた。

昭和23年9月、東宝が帝都座を日活に売却したのをきっかけに「額縁ショー」は終焉を迎えた。わずか1年9ヵ月の命だった。

焼け野原の東京で、仕事も生活もままならない男たちが「額縁ショー」に毎日のように足を運んだのは、今日を生き延び、明日も生きていくという実感を得られたからではないだろうか。

「額縁ショー」は、傷つき、生きることを諦めそうになった男たちの見た、小さな希望の光だったのかもしれない。

参考文献
秦豊吉『演劇スポットライト』. 朋文堂
森彰英『行動する異端 秦豊吉と丸木砂土』.TBSブリタニカ
文 / 草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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