敗戦後、極東国際軍事裁判においてA級戦犯として絞首刑に処された東條英機。
その妻・かつ子は、夫を支えながら激動の時代を生き抜いた。
国のために尽くしたと信じて処刑された夫、世間から憎悪の視線を浴びたその妻は、どのような人生を歩んだのか。
今回は、第40代内閣総理大臣・東條英機の妻として波乱の生涯を送った、東條かつ子の足跡を辿ってみたい。
福岡県の素封家に生まれ、大学在学中に東條英機と結婚

画像 : 東条英機と、妻の勝子、孫の由布子 public domain
明治23年(1890)10月、東條かつ子(旧姓・伊藤)は、福岡県田川郡にて、地主である伊藤万太郎・トウ夫妻の長女として生まれた。
森林や田畑を有する大地主の娘として育ったかつ子は、幼少期から聡明で、小倉高等女学校を経て、東京の日本女子大学に進学する。
女学校に通っていた当時、かつ子が下宿していたのは東條英機の母・ちとせの実家である萬徳寺であった。
その縁から、東京での保証人は英機の父・英教が引き受け、両家の交流が深まっていく。
明治42年(1909)4月、日本女子大の3年生であったかつ子は、陸軍歩兵中尉だった東條英機と結婚した。
当初、かつ子は学業を続けたいとの思いから縁談を断ったが、英機の母・ちとせが「通学を許す」と約束したため、結婚を受け入れた。
しかし結婚後、ちとせは「女に学問は不要」との持論から態度を一変させ、「まずは家事をすべて終えてから登校するように」と命じた。
総勢13人が暮らす東條家の膨大な家事を背負わされたかつ子は、やがて疲弊し、わずか1か月半で大学を中退せざるを得なかった。
姑のちとせは終始厳しく接したが、夫の英機は妻に深い愛情を注ぎ、夫婦仲は常に良好であったという。
東條英機を支え続けた妻

画像 : 青年期の東條英機 public domain
その後、かつ子は自身の向学心を夫・東條英機の陸軍大学受験の支援へと注いだ。
勉強の日程表を作成し、進捗を記録するなど、積極的に学業をサポートした結果、英機は大正元年(1912)12月に陸軍大学へ入学、大正4年(1915)には卒業を果たす。
大正8年(1919)9月、大尉の東條が欧州への3年間の駐在を命じられると、当時28歳のかつ子は3人の子どもを連れて一時九州の実家に戻った。
東條の赴任の間、東條夫妻の間で交わされた手紙は303通に及び、東條が144通、かつ子が159通もの手紙を書いた。
当時は往復に4か月を要したが、かつ子は生活の様子や夫の健康を気遣う内容を綴り続け、東條もまた、妻からの手紙を何よりの励みとして返書を書き続けた。
大正11年(1922)11月、東條は帰国。欧州滞在中に少佐へ昇進し、軍内でも着実に地位を高めていった。
しかしその後、陸軍内では皇道派と統制派の対立が激化し、統制派に属していた東條は、派閥闘争のあおりを受けて満州への転任を命じられることとなった。
夫にともない満州へ
昭和10年(1935)、東條英機の満州赴任にともない、かつ子と子どもたちも現地に渡った。
英機は関東軍憲兵隊司令官として治安維持にあたり、複雑に入り組んでいた警察組織の統一を進めた。

画像 : 二・二六事件 叛乱軍の栗原安秀陸軍歩兵中尉(中央マント姿)と下士官兵 public domain
昭和11年(1936)に起きた二・二六事件の際には、満州に潜在していた皇道派将校らを徹底的に取り締まり、事件の波及を防いだとされる。
この功績により、東條は関東軍参謀長に抜擢された。
かつ子もまた、参謀長夫人として国防婦人会の会長を務め、日本婦人会と満州婦人会の連携を強化。
兵士たちへの慰問や支援活動に力を尽くし、官邸にはしばしば婦人会の会員を招いて食事会を催し、交流の場を設けた。
かつ子は明るく社交的な性格で、人一倍質素な生活を貫いていた。
幕僚夫人らと集う場でも普段着の銘仙をまとい、装いに飾り気はなかったため、周囲から「もう少し見栄えを」と噂されることもあった。
だが、その質素ぶりは夫・英機ともども筋金入りであり、二人は倹約家として知られていた。
他人に対する面倒見もよく、困窮する知人がいれば生活が苦しくても惜しまず金を貸し与えたという。
時には家に現金がなく、質屋に通って工面したという逸話も残っている。
質素で謙虚な総理大臣夫人
昭和13年(1938)、東條英機は東京へ戻り、第二次近衛内閣で陸軍大臣に就任する。
軍部内では統制派を代表する存在として台頭し、昭和16年(1941)10月、内閣総理大臣に抜擢された。

画像 : 1941年(昭和16年)10月18日、総理大臣官邸での初閣議を終えた東條内閣の閣僚らと public domain
これは本人にとっても予期せぬ指名であり、東條自身がもっとも驚いたといわれる。
かつて対米強硬派として知られた東條であったが、就任後は昭和天皇からの意向を受け、戦争回避のため外交努力を重ねた。
だが、政界の強硬派や民間の国家主義者たちからの圧力は強く、最終的には開戦を決断。
12月8日、日本は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。
一方、総理大臣夫人となったかつ子は、官邸に上がってもなお、質素な生活を崩さなかった。
移動には電車やバスを利用し、贅沢を嫌った。
ある日、東條の食事を用意するため官邸を訪れた寿司屋の主人は、小柄な和装の女性が甲斐甲斐しく働く姿を見て、それが総理夫人だとは夢にも思わなかったという。
その後、戦局は次第に悪化し、昭和19年(1944)7月9日、サイパン島がアメリカ軍に占領される。
これにより日本本土の危機が現実味を帯び、同月18日、東條内閣は総辞職に追い込まれた。

画像 : 自殺未遂後GHQのアメリカ軍病院で手当を受ける東條英機 public domain
終戦後、東條は東京・用賀の自邸で自決を図るも未遂に終わり、連合国軍の病院で治療を受けたのち、戦犯容疑者として巣鴨刑務所に収容された。
A級戦犯家族の苦しみとその後
昭和21年(1946)5月、極東国際軍事裁判が始まり、東條英機を含む28名が「A級戦犯」として起訴された。

画像 : 極東裁判にて、被告台に立つ東條英機 public domain
かつ子は家族とともに一時、九州の実家へ身を寄せていたが、「もう逃げ隠れするのはやめよう」との決意のもと、東京への帰還を決意する。
しかし帰京直後から、世間の風当たりは激しかった。
「東條のせいで息子が戦死した」「おまえらの七人の子も死ね」などの憎悪に満ちた手紙が絶えず届き、通りすがりに石を投げつけられたり、罵声を浴びせられることもあったという。
そうした仕打ちにも、かつ子は「決して言い返したり、言い訳をしてはならない」と家族に言い聞かせ、ただ黙して耐えた。
その胸中には、東條はあくまで国のため、そして天皇のために誠実に職責を果たした、という揺るぎない誇りがあった。
昭和23年(1948)11月12日、裁判の判決により、東條を含む7名に死刑判決が下され、同年12月23日、刑が執行された。
その後も、東條家に対する社会の視線は長らく厳しかった。
かつ子と家族は東京・用賀の自邸で畑を耕し、米以外の食料をほぼ自給自足で賄う質素な生活を続けた。
かつ子は外出をほとんどせず、日がな一日を敷地内で過ごしたが、その暮らしは決して陰鬱なものではなかった。
やがて、政財界の関係者がひそかに訪れ、畑仕事を手伝うようになり、孫たちの友人も遊びに来るなど、東條家は次第に活気を取り戻していった。
かつ子は孫たちに、「おじいちゃんは立派な人だった」「夫婦喧嘩をしたことなど一度もない」と語り聞かせていたという。
そして昭和57年(1982)5月29日、91歳となったかつ子は「ありがとう、ありがとう」と繰り返しながら、家族に見守られ静かに息を引き取った。
東條英機の妻として、時代の奔流に巻き込まれながらも、かつ子は決して声高に語ることなく、静かに夫と家族を支え抜いた。
激しい非難のなかにあっても、夫の名誉と信念を信じ続け、愚痴ひとつこぼさず土にまみれ、家族と暮らしたその姿は、戦後の混乱と断罪の時代を生きた一人の女性の、ささやかながらも確かな矜持を物語っている。
参考 :
佐藤早苗「東條勝子の生涯」
福田和也「総理の女」他
文 / 草の実堂編集部
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