昭和初期、15歳で映画界に入り、瞬く間に青春スターの座をつかんだ女優がいた。
彼女の名は水久保澄子(みずくぼ すみこ)。
都会的で現代的な顔立ちと、のびのびとした演技は、それまでの女優像とは一線を画し、観客のみならず映画関係者をも魅了した。
しかしその華やかな表舞台の裏で、彼女は一家の生計を背負いながら働き続けていた。やがて自殺未遂事件を起こし映画界から追放され、幸せを求めて国際結婚をするも失敗。
今回は、激動の時代の中で揺れ動いた水久保澄子の人生をたどる。

画像 : 水久保澄子、1932年ころの写真 public domain
一家を支えるため15歳で映画界入りし、青春スターの地位を確立する
大正5年(1916)10月、水久保澄子(本名・荻野辰子)は現在の東京都目黒区に生まれた。
澄子の父親は地所や家作を持っていた資産家だったが、事業に失敗して多額の負債を抱えたため、当時、洗足高等女学校の1年生と3年生だった澄子と姉は、中途退学を余儀なくされた。
昭和5年(1930)7月、家計を支えるため東京松竹楽劇部に入団する。
レビューガールとなったものの安月給の下積み生活が続き、思い余った澄子は楽劇部主任に映画界入りの希望を伝え、昭和7年(1932)春に松竹蒲田撮影所へ入社した。
そこには一足先に、楽劇部同期の逢初夢子(あいぞめゆめこ)が入社していた。

画像 : 水久保澄子と逢初夢子(右)public domain
入社間もなく、成瀬巳喜男監督の『蝕める春』で三女役を演じ、自然体の演技が注目を集める。
続く島津保次郎監督『嵐の中の処女』では思春期の少女像を繊細に表現し、早くも青春スターの地位を確立した。
この作品で澄子は、ダンサー役を務めた逢初に大きく差をつけた。その後も成瀬監督の『チョコレートガール』に出演し、翌昭和8年(1933)には逢初とともに準幹部に昇進した。
しかし当時、18歳にも満たない澄子は
「14歳から現在まで、まだ1度も、ゆっくり眠り、心置きなく遊んだことがありません。いつも何かに襲われるような気持ちで働いてきました」
「ラブシーンの気持ちが全然わかりません。働き続けてきた私には恋というものがわかりません。私はただスクリーンの人形にすぎません」
と、無我夢中でカメラの前に立っていたということを雑誌のインタビューで語っている。
その後、澄子は芸者役から若奥様役まで幅広い役を演じるようになり、女優としての成長ぶりを見せていった。
彼女のファンの中には、時代劇スター・片岡千恵蔵や映画監督・マキノ正博らがいて、片岡は自分が水久保ファンであることを公言し、マキノは彼女のサイン入りブロマイドを手に入れると朝晩礼拝していたという。
自殺未遂を起こし、映画界から追放

画像 : 水久保澄子、1934年の写真 public domain
松竹蒲田で重用されていた澄子だったが、昭和9年(1934)6月、彼女は日活へ移籍することになった。
実はこの移籍は、澄子の父親が彼女には無断で進めたことであり、澄子が知った時にはすでに日活から父親へ大金が渡された後だった。
蒲田に恩義があった澄子は移籍することに泣きながら反対したが、どうすることも出来なかった。また、この時、ダンサーをしていた姉も、澄子とともに日活へ入社し女優へ転向した。
日活へ移った澄子からは蒲田時代のような輝きは見られなくなった。その理由として、彼女の父親の欲深さがあった。
澄子の日活入社後、父親は会社への要求を次第にエスカレートさせていき、翌昭和10年(1935)春には、父親からの要求に応えられなくなった会社から「もう要求はきけないから辞表を出したらどうです」と突っ放されたことまであったという。
この頃から澄子の生活は荒み始めて、彼女は飲酒をしてたびたび夜更けまで遊びまわるようになった。
他にも「澄子は共演した俳優と深い関係にある」「監督から言い寄られている」などと噂された。
次第に彼女の心は激しく乱れ、自暴自棄に陥っていた。
そして同年秋、ついに澄子は自殺未遂事件を起こすこととなる。
ウイスキーと一緒に多量の催眠鎮静剤を飲み、発見された時には昏睡状態であった。澄子の自殺未遂事件の動機をめぐっては様々な憶測が飛び交い、連日のように報道された。
またこの時、澄子は阿部豊監督の『緑の地平線』の撮影中だったが、急遽、代役が立てられることになり、日活は水久保姉妹にクビを宣告した。
澄子は10代後半で、一夜にしてスターの座から転落してしまったのである。
幸せを求め国際結婚をするも失敗。その後‥

画像 : 非常線の女(1933年)public domain
映画界から追放された澄子は、その後、吉本興業のショーに出たり、ダンスホールで踊ったりしていた。
そんな彼女の前に現れたのが、医学を学ぶために日本に来ていたフィリピン人青年・ヴァレンティン・エディ・タンフッコだった。
ふとしたことから交際するようになった2人は、昭和11年(1936)夏に結婚し都内に新居を構えた。
澄子はエディから「私の父は名声と人望がある大富豪だ」などということを聞かされ、自分たちの未来にはバラ色の生活が待っていると期待した。
エディは病院での研修を終えた後、マニラで医院を開業する計画だったというが、翌昭和12年(1937)春、父親に早く初孫の顔を見せたいと、臨月が近い澄子を連れて帰国した。
期待に胸を膨らませながらフィリピンにやって来た澄子だったが、エディの生家を見て愕然とした。
彼の生家は驚くほどみすぼらしく、大家族が小さい粗末な家屋にひしめいている状態で、澄子には1日たりとも我慢できる場所ではなかったのだ。
真実を知った澄子は、早々に日本に帰ることにし、「この子は日本では幸福になれない」と生まれた子どもはフィリピンに残した。
その後の彼女の足取りははっきりしない。
神戸や京都でダンサーとして舞台に立っていたという証言がある一方、映画評論家の筈見恒夫は戦時下の上海で彼女を見かけたと回想している。
戦後、フィリピンに残した子どもが母を探して来日したが名乗り出る者はなく、以後の消息は明らかになっていない。
参考文献
山下武「暗転 水久保澄子の悲劇」映画論叢(通号4)2002.7
文藝春秋「キネマの美女」1999
文 / 草の実堂編集部

























この記事へのコメントはありません。