外道の彩色
「絵筆・絵具などの画材を持って吉村班まで出頭せよ」
吉村班とは、凍傷を主とするプロジェクトチームであった。
吉村班の「凍傷実験」は主として(11月~3月)に行われていた。ハルピンの冬は極寒である。夜間は零下40℃を超すのが当たり前であった。
吉村班は夜の11時~12時にかけて「マルタ」を特別処置室に連れ出し、冷水を入れた桶に「マルタ」の手足を浸した。水に濡れた「マルタ」を戸外にだし手足をそのまま零下にさらし、確実に凍傷を起させるのである。「マルタ」の皮膚は始めは白く貧血になり、赤から紫色に変わり水泡が生じ、さらに赤黒くなり、完全凍傷の頃はどす黒い色となってその部分の皮膚・筋肉は硬直し、神経は完全に麻痺する。
そして吉村班員は、凍傷になったかどうか、マルタの手足を角材で殴りつける。「痛い」といううちは、まだ凍傷ではないというわけである。露出した「マルタ」の四肢が壊死したのを見届けて、吉村班は屋内へ戻した。今度は「マルタ」の四肢をぬるま湯の温度に付けていくのである。5℃・10℃・15℃とあげていき、湯の温度と凍傷度とは、治療においてどのように関わり合うか。要因を様々に変えていき、徹底的に実験を行う。
全凍傷になったマルタの四肢は、いきなり熱いお湯に漬けると、その全組織がポロリと崩れ落ちてしまう。・・白い骨が剥き出しになるのだから、あとは四肢を切断する以外にマルタの命を助ける方法はなかった。
呼び出しを受けた彼らが描いたのは、この変形し壊死した「マルタ」の四肢であった。ある絵は、両手の指関節から先が腐りかけていた。
また別の絵には両足がくるぶしから、先がなかった。足首から腿にかけ、白い骨が剥き出していた。描くだけではない。色を正確に付けていく事、完全なる「凍傷実験の記録」であった。そして吉村班はこれらを刻銘に記録する為、白黒フィルムに収め記録映画を作ったのである。こうした「記録映画」には色がなかった為だけに、「悪魔の彩色」が行なわれたのだった。
死のリザーブ
上図を見て頂きたい。「7棟・マルタ」の上「解剖室」があるのがお解りだろうか。
ここでは「生体解剖」が行なわれていた。予定はあらかじめ各研究班に知らされ、その段階で「バラシた後は小腸と肝臓は●●班に」「脳は▲▲班に」と予約されていた。
一つの薬品を「マルタ」に取り入れた際、時間経過・内臓の諸変化との関連を調べるのも生体解剖のメリットであった。そのため「マルタ」には、およそ人間が考えつく物質が「注入」された。
静脈から空気を注射すると身体の諸器官はどのようなプロセスを経て悶絶に至るのか。尿や馬の血液を腎臓に注入したらどう反応するか。「マルタ」一体からどれほどの分量の血液を搾り取る事ができるか。普通なら「非道」とされる事をここ731部隊では、当たり前の様に行われていたのである。
1943年のある日、解剖室に一人の中国人少年が連れ込まれた。少年は隊員の一言で、台の上に上がり上半身裸になり、口と鼻にクロロホルムを嗅がされた。全身に麻酔が廻った頃、中国人の少年の身体がアルコールで拭き取られた。眠ってる少年の体内から腸・膵臓・肝臓・腎臓・胃袋と手順よく各種の臓器が取り出され、一つずつ選り分けられてはバケツの中にどさり・どさりと投げ込まれていった。バケツの中の臓器は直ちに、備え付けの大きなホルマリン液の入ったガラス容器に移され、フタが閉まった。
少年の下半身は殆ど空洞になった。年からいったらまだ12~13歳ぐらいの子供だった。
この少年は「マルタ」ではなく、どこからともなく連れてこられたというのだがまるで悪魔の所業である。
遅行性ノミ・ペスト実験
ガス壊疽菌とは・・戦場で爆裂傷を負った兵士がかかる恐ろしい病気である。高熱・筋肉の壊死・猛烈な悪臭と腐敗による筋肉の変色、当時これをふせぐには四肢切断しかないとされていた。
731部隊の本部(平房)から安達まで120キロ。その安達特設実験場にマルタが移送される。これは「細菌兵器を完成させる為の実験」であった。実験場の一隅には10m~5m間隔に柱が立っていた。マルタは特殊プロテクターを装着し、この柱に縛り付けありとあらゆる実験が試みられたのである。
ある時は十数人のマルタの尻だけを露出させ、ガス壊疽菌の強制感染実験が行われた。露出したマルタの尻をめがけ、至近距離から、ガス壊疽菌で汚染された爆弾を落とし、無数の破片がマルタの尻に食い込んだ。兵士達がこの破片がマルタに命中したか一体ごと「点検」をした。この後、マルタ達は特設官房に移され
発病から死亡するまでを克明に観察・記録された。一週間後、マルタは腐肉から猛烈な悪臭を発しながら全員死亡した。ガス壊疽実験だけでなく、手榴弾を露出させたマルタの臀部付近で爆発させ、破片の突き刺さり具合を調べたりもしたのである。
また安達ではこんな「実験」も行われていた。マルタを縦に10人づつ並ばせる(10人一組)一組には分厚い防寒着を着装させ、一組には普段着で、もう一組は裸で、前後の間隔を詰め、身体を密着させ、731部隊は「串刺し用の実験材料」とし、三八式歩兵銃をかまえ「撃て!!」「貫通五・・貫通四・・」この実験も繰り返し行われたのであった。
実はこの様な第731部隊が寧波方面で行った実験の記録映画も撮影していたのである。これを観た者は731部隊・関東軍関係者にとどまらなかった。新京(長春)の関東軍司令部に来ていた従軍記者も、みせられていたのである。
少年隊員は目撃した!!
1942年4月、日本内地から凍てつくハルピン市駅頭に総数107名、年齢14~15歳の少年隊が降り立った。「第731部隊少年隊」集結した直後から少年達はそう呼ばれた。
この少年達の共通項は二つあった。第一、出身家庭が裕福でなかった事、第二は、少年達が、いずれも国民学校在学中、成績優秀で優れた頭脳の持ち主であり、向学心に燃え知的好奇心旺盛な者ばかりだったのである。関東軍司令部あるいは第731部隊教育部からスカウトが派遣され、北は青森から南は鹿児島まで、受験にパスした14歳~15歳の少年達が単身内地からパルピンへ向かったのである。
何故、731部隊が、多数の少年隊養成を行ったのか?
特に深刻だったのは「細菌戦」を専門に研究する中堅技術者の絶対数の不足である。「細菌」を扱う危険な作業と不慣れによるミスで多数の犠牲者がでたのも事実である。また部隊を離れる技術者も少なくなかったのである。
実習実験は63棟で行われた。なんとオリンパス製の光学顕微鏡が150台余りずらりと並んでいた。当時、日本のどこに行っても、学生一人に一台の顕微鏡を備えたところはない。
病理解剖担当・・岡本、石川両班
コレラ研究・・湊班
凍傷研究・・吉村班
岡本班は、女マルタ生体解剖の現場を見た。鞭毛をもったひょろひょろ原虫を見た。「それはトリコモナス原虫だよ」女性マルタに埋められる「膣炎」の原虫である。
吉村班は、強力な冷凍室の中に両手両足手枷をかけられたパンツ一枚の裸体のマルタを見た。
ある日、別の少年は「馬の全採血」に立ち会った。特殊な注射器をポンプの先に付け馬の動脈から血を抜いていくのである。最後はやせ細りミイラの様になる。こうして開発された採血ポンプはマルタの全採血に使用された。少年達には気が狂いそうになるくら衝撃的なもであったのである。
731部隊 崩壊(1,945年8月9日)
1945年(昭和20年)8月9日午前零時からソ連の満州・朝鮮侵攻が始まった。10日、沿岸州地方からソ連軍先遣支隊が国境を越え、パルピンに向かって進撃を開始した。
731部隊石井部隊長は3点を重要視した。
1、731が蓄積した資料膨大なデータ・各種資料を日本に持ち帰る事。
2、ソ連軍による逮捕者に成らない為の配慮。
3、特別班員の緊急避難。
この三点だった。
特殊班に残された最後のミッションは「マルタを殺害する」
すでに731の鉄道引き込み線には、平房駅からの貨車が3本導入しており、特別班と貴重資料を満載したこの貨物は、11日に平房を出発した。
マルタの最期の虐殺を目撃した隊員の言葉である。「殺しちまったマルタの足をひっぱって、7棟横にあった大きな穴に、次々と死体を放り込み、ガソリンと重油をかけ火をつけた」
731の焼却炉は「生首の標本」「細菌培養の寒天」「膨大な書類」を焼却するためふさがっていた。マルタの死体はなかなか焼けなかった。急いだ隊員は焼却半ばで土をかけ逃亡してしまった。その為、土から手足が突き出ており、幹部が見て「もう一度、掘り直して完全に焼いてしまえ」と命令したのであった。
731部隊と家族を載せた専用貨車は8月1日~15日にかけて15~20本を数えたという。先頭列車が拉賓を一時北上したとき、黒い大蛇の様に次々と南下した。
8月15日の夕刻、奉天で、また長春の手前で終戦を聞いたのだった。
安東から新義州を経て8月半ば朝鮮半島の釜山に到着した。行く先駅ごとに、中国人・朝鮮人民衆の襲撃・掠奪を受け、空腹と疲労に苛まれ釜山に到着した列車もあった。
隊員達を積んだ帰還船は、1945年8月18日~25日にかけて「佐世保・博多・舞鶴・敦賀」などの港に着いた。極東軍事裁判開廷にあたり、ソ連は731部隊部隊長:石井四朗の取り調べ・処罰を要求した。だが石井四朗はいち早くGHQに取り入り、密かに持ち帰った「当時世界最深の細菌データー」の山をアメリカに提供、アメリカは狂喜し捕虜だった北野政次を釈放したのである。
しかし「マルタとなって死んで行った人達」の魂は、救いようがない・・日本の恥辱である事には違いないであろう。
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フィクションの受け売り・・・
何をもってこれが真実だと??
お書きになったことに非常に興味を持っていますので、その資料はどこで見つかったんですか
こういうのを真に受けるオバカって、なんだか可哀そうだわ、馬鹿過ぎて(笑)
このネタ元の小説「悪魔の飽食(第1部は1981年)」が出た当時の時代背景とかを知らんのだろうなぁ
当時はオカルトネタが大流行していて、この本と前後して大ブームになったのが
「ノストラダムスの大予言(1冊目は1973年刊行)」なんだわ、それにあやかり二匹目のどじょうを狙った本が
雨後の竹の子ごとく何十冊と出されたもんだわ、漫画でもオカルトブームでエコエコアザラクとか恐怖新聞とかが売れてた
でさ、この悪魔の飽食が最初に掲載されたのが、日本共産党機関紙の「赤旗」の日曜版
当時の(てか今でもだけど)赤旗がいかに、嘘や欺瞞、捏造などのトンデモ記事や連載、コラムばかりなのを知れば
この小説の内容も、信じるなんて間抜けなことはしないのに
(学研の月刊誌ムーの記事を鵜呑みにするヤツがいないのと同じすわ)
つーか、そういう奴らの想像力というかその方向性がヤバ過ぎ
普通考えつかんからねこんなのw
当時の関係者リストが公表されているけど、名誉棄損の訴えが無い。
やはり・・・・・
犯人呼ばわりされた親族から、名誉回復の訴えが無いところを見ると実話だな。
ソースは?画像の書類もやけに綺麗だけど大丈夫?
プールだとか外来語は少なくとも書類には使いづらかったよね?
そして左から右への横書きが主なんて、後世作ったもの確定じゃん?
LGBTめっちゃ擁護してネガティブな側面にはノータッチなだけあるわw
名誉毀損がなんだかんだ?マジで言ってるなら救いようがないなw
想像力の著しい欠如ってのはこういうことを言う
これに載っている写真や文章は、明らかに捏造品。取り立てて騒ぐ必要性がない。遺族が名誉棄損の訴えがないのはあたりまえ、当人が死んでいるし、情報も遺族には良く分からないから、反論しようがない。ただ、731部隊には、いろんな面で、実行したと言う点が有るが、それに至る道がない。結果もないが、使われたと言う割に、ペストの流行したと言う話も聞かない。危険性が高すぎる割に、事故もない。少年隊が使われた割に、こう言った実験で必要なネズミや蚤等の飼育が当然任されるはずだが、そのような記述もなければ証言もない。現行の証言や証拠では、ない、有ると断定できる物ではない。断定できない以上現在ではないと考えてよいだろう。
森村誠一は良く調べてるし、それ以後、731部隊は医学会の重鎮となったと言われる。旧優生保護法、らい予防法、薬害エイズ。ひと昔前の大学病院や精神病院での患者の扱いなど共通するものもあるので本当の事のように思える。