インドからの評価
インパール作戦は、第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)3月から7月上旬にかけて行われた日本陸軍の軍事作戦です。
戦史上からも部隊の兵站を無視した無謀な軍事行動と紹介されることの多い作戦ですが、単なる日本軍の失策とは片づけられない側面も含んでいました。
それはこの作戦が、短期的な攻略目標としてはインド北東部の要衝インパールの攻略を行うことでしたが、長期的には当時イギリスの植民地としてその統治下にあったインドの独立を喚起する意味を持った戦いであったと言う点です。
このことから現在では、日本においてよりむしろインドにおいて評価されている戦いとなっています。
インド国民軍の士気
インパール作戦に動員された兵力は、日本軍が約80,000人とインド国民軍の約6,000人でした。
これらの兵が、インドの東側に位置し、イギリス・インド軍が守るインパール攻略を目指して当時のビルマ(現ミャンマー)から侵攻した作戦でした。
イギリス側の総兵力は約15万ともいわれ、攻める側が寡兵の元々不利な作戦ではありました。
しかしインド国民軍は、大戦初期のマレー半島の攻略時に日本軍に降伏して従った元イギリス・インド軍の中のインド兵で構成された軍であり、彼らの最終の目的はイギリスからの祖国インドの独立にありました。
このため、祖国解放に向けた彼らの士気は軒昂で、この作戦における意気込みも十分なものがあったと伝えられています。
分岐点のディマプール
作戦の当初は、インパールへの入口にあたるコヒマを日本側が占領し、一時的には優位に戦いを進めたかに見えました。
イギリスの兵站基地が置かれていたディマプールまでもう一息の距離まで進撃しましたが、コヒマを陥落させた佐藤中将の師団が補給難(特に食糧)をきたしたことから、指揮下の兵の撤退を決断したことで、イギリス側に軍配が上がる結果となりました。
ここから6万の兵が撤退することになり、内4万人近くが餓死する凄惨な状況が発生しました。
この兵站を軽視した日本軍の作戦に問題はあったものの、戦後イギリス側からも、もし日本がディマプールの攻略に成功して入れば、燃料・武器・食糧などの物資を入手することが出来たと指摘されています。
このことから、その場合には軍事的にも日本側が勝利する可能性もあったものと考えられます。
インドの独立
第二次世界大戦が日本の敗戦で終了した後の1945年(昭和20年)11月、イギリス・インド政府は、インパール作戦に加わった「インド国民軍」の指揮官を軍事法廷で反逆罪に問うて処分を下そうとしました。
しかし、その行いがインドの民衆に知れ渡ると、各地でイギリスに対する暴動が発生しました。
こうしてインド独立に向けた民衆の熱気は全土に及び、ついに鎮圧は不可能と見たイギリスはインドの統治権を諦めるに至り、1947年(昭和22年)8月にインドは独立を成し遂げました。
こうした経緯から、インパール地方には日本軍将兵の慰霊碑が建立されて今なおその功績を顕彰しています。
政治的な意義のあった インパール作戦
インパール作戦は、確かに日本側の指揮官であった牟田口第15軍司令官の功名心が現場の状況を無視した無理強いを行い、結果軍事的には失敗した作戦ではありました。現代では無謀な作戦の代名詞として「史上最悪の作戦」とも呼ばれています。
既に敗色が濃厚だった日本にとって、作戦そのものを危惧する向きもありながら陸軍上層部の投機的な判断で強行されたものであったことも否めません。
それでも究極の目標であったインドの解放に向けて、イギリスの植民地支配を崩すきっかけとなった作戦として政治的には意義のあったものと評価することができると思います。
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