カウラ日本人戦没者墓地
海外領土と言うのとは実は少しニュアンスは違いますが、オーストラリアのニューサウスウェールズ州にある、カウラ日本人戦没者墓地 は、1963年にオーストラリア政府から日本に割譲され現在も日本の領土となっている場所です。
戦没者の名の通り太平洋戦争時に発生した日本人の戦死者の墓地がある場所であり、オーストラリア政府が日本への友好の証として日本の領土と定めた、謂わば大使館の敷地のような感覚に近いものと言えるものでしょうか。
如何にしてこの地が日本の領土とされたのかを調べてみました。
第12捕虜収容所
ニューサウスウェールズ州、シドニーから西へ約250km程の場所にあるのがカウラです。このカウラの中心から北東側へ約3kmほど離れた場所に置かれていたのが、オーストラリアの第12捕虜収容所でした。
この捕虜収容所は、戦後の1947年まで設置されており収容されていた捕虜は、枢軸国のイタリア人・ドイツ人・日本人などであり、そのうちの1,104人が日本人でした。
日本人の捕虜は1943年1月から収容されており当初は海軍の航空兵が中心でしたが、後には陸軍の兵が大部分を占める事になりました。
日本兵の集団脱走
当時の日本兵は、特に陸軍において「戦陣訓」で有名な「生きて虜囚の辱めを受けず」の精神が横溢していました。
そのため集団での脱走を実行するに至りました。ここで起きた事件は、捕虜収容所からの脱走として歴史上最も多い数となり、日本人収容者数1,104人中の545人以上が加わったとされ、カウラ事件と呼ばれています。
1944年8月5日の深夜2時過ぎに起こされたこの事件は、死者がオーストラリア兵4人、日本兵231人を数える惨事となりました。
この時日本兵が手にしていたものは、食事用のフォークやナイフ、またレクリエーション用の野球のバットなどでした。当然警備に機関銃をも設置していたオーストラリア兵に対して有効な武器は何もない状態でした。
かくして多くの日本人捕虜が射殺され、収容所の外に脱走したものも約1週間後にはすべてが捕縛されました。
オーストラリア側の対応
事件発生当初、オーストラリアはこの集団脱走事件を秘匿することにしました。
これは、事件発生時は未だ戦争中だったため、仮に日本側に捕虜が多数死亡したことが漏れた場合に、オーストラリア兵に対する復讐などの捕虜の安全を脅かす恐れがないようにと考えられたためでした。
事件発生日のラジオと新聞による報道は行われつつも、捕虜の国籍や被害の数は発表せず、8月6日に事態が収束されたことのみを明らかにしました。
その後日本が連合国に降伏したことを受けて、翌9月9日にジョン・カーティン首相が事の詳細を発表するに至りました。
日本側の対応
しかし日本側は、この集団脱走事件が発生したことを8月10日には国際赤十字を通じ、スイスのベルンにあった外交官からの情報として入手していました。その後の9月2日に死亡した人物のリストも同じくスイス経由で入手しましたが、詳細についてはカーティン首相の発表が行われるまで判明していませんでした。
そもそも当時の日本は、自国の兵士が捕虜になる事自体を認めない体質だったため、殊に戦争期間中にそうした報告を公にすることもありませんでした。
オーストラリアからの計らい
今あるカウラ日本人戦没者墓地は1962年にその収容所の跡地に作られたもので、集団脱走事件の死亡者及びオーストラリア地域の日本兵の戦死者522柱が眠っています。
翌年の1963年にオーストラリア側からの申し出により、この墓地は日本に譲渡されることになり今に至っています。
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