太平洋戦争・第二次世界大戦において、日本は連合国から提示されたポツダム宣言を受諾し、敗北に終わった。
この後、日本は戦後の復興に向けて歩みを進めていくことになるのだが、太平洋戦争の最中、実質上日本が統治権を保持していた朝鮮半島においては、新たな戦争の火種がくすぶっていた。
これが「朝鮮戦争」である。
日本はポツダム宣言の受諾後、「軍隊」を保有することはなかったが、朝鮮戦争に無関係の立場でいることはできなかった。
日本は朝鮮戦争にどのように関わったのだろうか。
朝鮮戦争とは?
太平洋戦争が行われていた1943年の11月、連合国によって発出されたのが、朝鮮半島一帯を自由独立の国にするという内容を含んだ「カイロ宣言」であった。
日本はこの後、広島・長崎への原子爆弾投下、ソ連の対日参戦などの出来事を経て、1945年8月14日、終戦の詔書が発出されポツダム宣言が受託された。かくして、朝鮮半島の”統治者”であった日本がその統治権を手放すことになった。
このような終戦に伴う混乱の中、ソ連はすでに8月9日に豆満江を越えて朝鮮半島へ侵攻してきていた。
約70万人の日本人居留民を抱える朝鮮総督府は、侵攻してくるソ連を抑え込む方法がなかった。
この中で重要な役割を演じたのが「呂運亨 : りょうんこう」という人物だった。
この人物は、政治犯の釈放と独立運動へ干渉しないことを条件に、行政権の委譲を受けて朝鮮総督府へ協力することとなった。
呂運亨は、朝鮮半島内に存在する政治的思想の異なるグループ全体が協力して独立を目指すという「左右合作運動」を目指していた。ところが、呂運亨自身が朝鮮総督府に要求し釈放された政治犯というのは、大半が共産主義者たちだった。
これによって独立運動を行う「建国準備委員会」は必然的に左傾化(共産化)し、この建国準備委員会は9月6日、「朝鮮人民共和国」の成立を宣言した。
連合国側は朝鮮半島を「信託統治」(連合国による監督のもと信託を受けた施政権者が統治を行う方法)とすることをすでに決定していたため、「建国準備委員会」は解散させられた。
信託統治は朝鮮半島内の政治グループのほとんどから反対され実現しなかった。
しかし朝鮮半島の政治勢力は、この信託統治に反対しつつも親米派・反共派であった「李承晩(南朝鮮過渡政府 – のち大韓民国)」と、ソ連の後ろ盾を受けた共産勢力であった「金日成(北朝鮮人民委員会 – のち朝鮮民主主義人民共和国を宣言)」とに分かれた。
両派は1948年8月以降、北緯38度線を実質上の「国境」として睨み合っていたが、1949年8月にソ連が原子爆弾の開発に成功すると、金日成を支援しているソ連はアメリカとの戦争に自信を深め、北朝鮮側でも大韓民国側への侵攻の機運が高まった。
そして1950年6月25日午前4時、北緯38度線において北朝鮮軍の砲が火を吹き、約10万の北朝鮮兵士が南下を開始した。
こうして「朝鮮戦争」が始まったのである。
日本の参加「特別掃海隊」
朝鮮戦争においては、アメリカ軍を始め国連軍も軍事力を派遣した。
しかし北朝鮮軍の突然の進軍に準備が間に合わなかった国連軍は各地で苦戦、アメリカ軍もまた大田の戦いで大敗を喫した。
また陸上だけではなく、海上においても北朝鮮軍は機雷戦活動を開始し、アメリカ海軍第7艦隊の動きを封じていた。アメリカ海軍は機雷対処に追われたが、国連軍の掃海部隊はまったく人手不足であり、掃海任務は追いついていなかった。ここで日本が登場することになる。
日本には当時すでに軍隊はなかったが、連合国軍からの要請(実質上の”命令”)によって、掃海任務に当たる海上保安官、そして海上輸送や港湾荷役を行う民間人が、「特別掃海隊」としてこの任務にあたることとなったのである。
掃海任務とは?どんな困難があったのか?
日本は太平洋戦争において降伏し、すでに大日本帝国海軍は存在しなかった。しかし日本近海はこの時、およそ6万の機雷が敷設されている状態であった。
これらの機雷は大日本帝国海軍によってアメリカ海軍を防ぐために敷設されたものと、アメリカ海軍によって大日本帝国海軍の動きを封じるために敷設されたものとの両方が存在した。
こうした機雷を排除することは日本の海上輸送にとって重要であったため、朝鮮戦争が開始される以前から、海軍省 – 復員庁 – 運輸省 – 海上保安庁と所管省庁は変わったものの、日本人の手による掃海が行われていたのだった。
さて、話を朝鮮戦争の「特別掃海隊」に戻そう。
特別掃海隊の任務はまさしくこの「機雷対処」に他ならなかった。北朝鮮軍が敷設した機雷はソビエト連邦製のものであり、約4,000個の機雷が元山及び鎮南浦に敷設されていた。日本の特別掃海艇は、これらの機雷を処分する掃海任務にあたった。
機雷というのは水中に設置される地雷と考えればわかりやすく、艦艇が接近すると爆発するものや遠隔操作によって爆発するものがある。機雷を処分する「掃海」においては、機雷が係留されているワイヤーを切断して、囮装置によって安全な水中でわざと爆発させたり、機銃によって機雷を破壊するなどの方法が取られた。
掃海任務の困難さについては、まず爆発物を扱うことから地雷除去と同様の危険性があることが挙げられる。
水上での任務となることから、発見できていなかった機雷によって掃海艇が破壊されると乗員が海中に投げ出されてしまい、救助に向かった別の艦艇もまた危険となるといった困難があった。
実際のところ、この「特別掃海隊」においては、1950年10月11日から12月15日まで行った掃海作業によって300キロの水路と600平方キロの泊地を確保、合計で27個の機雷を処理することができた。
その代償として、10月17日には触雷によって18名の重軽傷者と、1名の「行方不明者」が発生している。
この掃海活動は、太平洋戦争後の日本にとって、初めての「作戦行動」となったのだった。
なお、この日本の作戦行動については北朝鮮・ソ連の双方から激しく非難されたほか、韓国大統領の李承晩も「万一、今後日本がわれわれを助けるという理由で、韓国に出兵するとしたら、われわれは共産軍と戦っている銃身を回して日本軍と戦う」と演説したとされる。
朝鮮戦争のその後と日本
朝鮮戦争は、当初は北側が圧倒的優位だった。
しかし後に、仁川上陸作戦をはじめとする国連軍・アメリカ軍の奮戦で38度線を越えて北上、さらにその後、中国の戦争介入によってふたたび戦線が南下し、38度線付近によって膠着状態に陥り、現代に至る。
朝鮮戦争は、戦線が朝鮮半島の北端から南端まで移動したため、「アコーディオン戦争」などと呼ぶ向きもあるほどに激しい戦いであった。
そしてこの戦争は、日本にも正負両面の影響を与えることとなった。
日本は戦争によって多くの船舶を失った。経済的にも復興最中であったわけだが、船を失っても船を操ることのできる日本人船員は、国連軍にとって貴重な人材だった。
GHQは、元日本領であるために朝鮮半島の地理に詳しく、かつ操船技術がある日本人船員を募集して仁川上陸作戦の際にLST(戦車揚陸艦)の運航を行わせた。この募集に応じた日本人船員はおよそ2,000人、LSTの約6割は日本人が運航していたという。
なお、このLSTの運航によって日本人船員は少なくとも57人の死者を出している。
1950年11月15日、アメリカ軍に労務提供をしていた日本人船員22名が、乗船していた大型曳船の触雷によって沈没し死亡した「LT626号沈没事件」においては、アメリカ軍が事件の発生を秘匿し船員の死亡の事実を公文書化しなかった。
死亡した船員は通常の死亡届によってではなく、神奈川県船舶渉外労務管理事務所の所長名で市町村に死亡報告が出され、戸籍の抹消手続き(死亡扱い)がなされるという変則的な処理が行われた。
一方、在韓米軍・在日米軍からの日本に発注された兵站物資などは直接的・間接的に日本の利益となり、1950年から1955年までおよそ36億ドルに達するほどの特需を生み出したとする計算もある。
この好景気によって、結果的に日本は経済再建の機会をつかんだ。
おわりに
ニュースにおいて、「北朝鮮」という言葉や「朝鮮民主主義人民共和国」という名称を聞いたことがある人は多いだろう。
そしてそう呼ばれる勢力が、韓国と対立しているという情勢を理解している人、なぜ国境が北緯38度にあるのかを理解している人も少なくはない。
そのわりに、朝鮮戦争というものがどのように進行したのか、そして日本がそれとどのように関わったのかを知る人は少ない。日本は掃海任務やLSTの運航という直接的な関わりの他にも、国連軍・在日米軍への物的な支援、補給基地の提供という形で朝鮮戦争に深く関わり、特需という形で利益も得ている。
戦後の日本は軍隊を持っていないから他国の戦争に関わっていないという主張には無理がある。裏を返せば、軍隊がなければ他国の戦争に関わらなくて済むという主張にもまた無理があると言わざるを得ないのだろう。
我々日本人自身が無関係であると思っていても、朝鮮戦争の当事者・当事国や国連加盟国から見れば、日本は現代にいたるまで、朝鮮戦争の明確な「関係者・参加国」のひとつなのだ。
この記事へのコメントはありません。