大正&昭和

【世界初の軍縮条約】ワシントン海軍軍縮条約はなぜ締結されたのか?

世界初の軍縮条約

ワシントン海軍軍縮条約は、1922年(大正11年)にアメリカ、イギリス、イタリア、日本、フランス第一次世界大戦の戦勝国間で締結された条約です。

正式な名称は「海軍軍備制限に関する条約」となっています。

この条約は1921年から翌年にかけて、アメリカの提唱で行われた国際会議、ワシントン会議のひとつとして協議され成立したもので、世界初となった軍縮条約でした。
この条約では各国海軍の主力である戦闘艦艇の数や、主兵装の火砲の口径、排水量などに制限を設けることになりました。

この条約により新規の主力艦建造は締結から10年の間禁止することになりましたが、20年を経過した主力戦闘艦の代替え建造は認められました。但しその場合でも新主力艦に実装される火砲の口径や重量については制限することが決められました。

戦艦の意義

ワシントン海軍軍縮条約はなぜ締結されたのか?【内容をわかりやすく解説】

※画像 : アメリカ フロリダ級戦艦

この条約の背景には、当時の主力艦であった戦艦が、極めて突出した戦略的な兵器であった側面が無視できません。

第二次世界大戦後の今日で考えると、核武装にも匹敵する究極の兵器と目されていたと思われます。

条約そのものは、海軍の軍拡競争に歯止めをかけるとともに、国際関係の緊張緩和や、財政面での負担の軽減を目的としていました。

反面、規制外であった巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などにおいて、新たな建造競争を招くことにも繋がりました。

日本の立場

この条約では、最終的にアメリカ、イギリス、日本の海軍国の主力艦の総トン数比率を5:5:3とするこが決定し、日本は米英の6割に制限されたことから、仮に戦争となった場合に不利だとする意見も当然ありました。

しかし逆から見ると、圧倒的な国力=建造能力を有する米英の戦力を、日本の約1.67倍に留めたとも考えられ、その国力差から見れば、日本は大きな海軍力を有することになったともいえるものでした。

その証左として、条約締結時点における主力艦保有数は、イギリス30隻、アメリカ20隻、日本11隻、建造中がイギリス4隻、アメリカ15隻、日本4隻で、日本の戦力はイギリス・アメリカの6割には及んでいませんでした。

ビッグ7

※画像 : 1926年改装後の陸奥

条約では会議の開催までに未完成の艦は廃艦とすることとなったため、当初は日本の戦艦「陸奥」も廃棄の対象艦とされていました。

日本で廃棄・建造中止となった艦艇は、空母に変更された「赤城」「加賀」。浮きドッグになってしまった「天城」軍艦島の名前の由来になった「土佐」などが有名です。

日本側は突貫工事を行って陸奥は完成艦と主張し、イギリスとアメリカはこれを未完成として議論は紛糾しました。

この当時、完成艦とされていた16インチ砲を実装した戦艦は、日本の「長門」、アメリカの「メリーランド」の2隻のみであり、「陸奥」を完成艦と認めるさせることは、日本にとって有利な結果でした。

最終的に、イギリス・アメリカは「陸奥」を承認したものの、代わりにアメリカはコロラド級戦艦2隻の建造、イギリスは2隻の新造を追加で認められ、戦艦の数の比率では日本はむしろ不利な結果となりました。

どちらにせよ、超弩級戦艦4隻を廃棄することになったイギリスが最も不利益を被り、日本は戦艦「摂津」1隻の権利を失うのみとなりました。

こうして世界における16インチ以上の火砲を実装した戦艦は、アメリカの「コロラド」・「メリーランド」・「ウエストバージニア」、イギリスの「ネルソン」・「ロドニー」、日本の「長門」・「陸奥」の7隻のみとなり、これらは畏敬の念を込めて「ビッグ7」と称されました。

条約の消滅

条約施行後、今度はその制限を受けない補助艦の建造競争が起こったことから、更にそれらを規制するため、1930年のロンドン海軍軍縮条約、1936年の第二次ロンドン海軍軍縮条約による改定が実施されました。

しかし条約調印国の離脱などから、早くも1930年代には条約の効力が損なわれはじめます。

日本は、1933年3月に国際連盟を脱退し、翌1934年(昭和9年)12月に同条約も破棄しました。更に日本は1936年にはロンドン海軍軍縮条約からも脱退、これを受けて1938年にはイギリス・アメリカも条約の内容を緩和して大型艦の建造に着手しました。

こうして条約は消滅し、再び列強各国は建造競争へと乗り出して、第二次世界大戦を迎えることになるのです。

参考文献 : ワシントン海軍軍縮条約廃棄問題

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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