太平洋戦争において、日本とアメリカは各地で激戦となった。
特に、映画でも描かれた「硫黄島の戦い」や住民にも多くの犠牲が出た「沖縄の戦い」、アメリカ軍上陸部隊にも多数の被害が出た「ペリリューの戦い」などは、多くの人が作品で目にしたことがあるだろう。
これらの戦いは、日本が当時領有していた太平洋・インド洋方面の島々、そして沖縄という島の防衛において、日本軍側が頑強に抵抗したエピソードが伝えられている。
さて、この記事で解説する「タラワの戦い」もその中のひとつだ。
アメリカ軍側で「恐怖のタラワ」「悲劇のタラワ」とさえ呼ばれるタラワの戦いとは、どのような戦いだったのだろうか。
タラワの戦いとは?
タラワの戦いは、1943年11月21日から23日の間に行われた戦いだ。
「タラワ」は場所を示しているが、この場所は現在はキリバス共和国にあり、ギルバート諸島タラワ環礁となる。
位置関係がわかりにくいが、オーストラリアを起点にすると、ケアンズ・珊瑚海からやや北東にソロモン諸島、そのさらに北東にナウル、そしてナウルから北東、やや東よりにタラワがある。
タラワの戦いはここで行われた戦いで、陸地だけで見ればおよそ31平方キロメートルしかない。
この小さな島を巡って、日本軍守備隊とアメリカ軍とが熾烈な戦いを行ったのである。
タラワの戦い当時の戦況
タラワの戦いが起こった当時の戦況は、一言で言えば日本軍にとって芳しくない戦況であった。
1942年7月以降、日本軍はソロモン・ガダルカナル方面で陸海軍ともに大きな被害を出し、1943年2月には「転進」という名の撤退を余儀なくされた。
5月には「アッツ島の戦い」で日本軍守備隊は全滅、6月から10月初旬にかけて戦われたニュージョージア島の戦いでは、アメリカ軍に相応の損害を与えつつも敗北した。
アメリカ軍側はアリューシャンやソロモンで勝利を収めたことにより、太平洋中部から日本へ向かって西へ進軍することができるようになり、この西進の最初の目的地がギルバート諸島のマキン・アベママ、そしてタラワの3つの環礁だったのである。
さて、日本軍はどのような準備を行っていたのか。実はこのタラワの戦いを有名たらしめたのはその事前準備によってであった。
もともとギルバート諸島は、日本側があまり守備隊を置いておらず、はっきり言えば脆弱だった。
しかし、1942年にアメリカ海兵隊が潜水艦でマキンに奇襲上陸をするという事件が起こった。
この攻撃そのものは、今回の「タラワの戦い」のようにギルバート諸島を制圧するための攻撃ではなく、あくまで設備の破壊や情報収集といったゲリラ戦にカテゴライズされるような攻撃だったのだが、この攻撃によって日本側はむしろギルバート諸島の重要性を認識するようになった。
これ以降日本側は守備隊を増強するとともに、ベティオ島を中心として全島の「要塞化」を目指した。
地下の戦闘指令所、岩と丸太で防御された半地下式のトーチカ、地下壕が築かれ、さらに当時の海軍陸戦隊(守備隊)としては珍しく戦車も配備するほどの充実ぶりだった。
このほか、高射砲隊、砲隊や設営隊などを合わせると合計約4800名の守備隊がこの島を守っていたのである。
戦闘経過~陸海空の総力を挙げた上陸作戦
さて、タラワはこのように「要塞化」が進められていたのであるが、アメリカ軍側は優勢な火力を携えて迫った。
11月21日午前4時、戦艦「コロラド」・「メリーランド」、巡洋艦「インディアナポリス」らが支援する中、アメリカ軍のLVTがタラワへ上陸を試みた。
しかしこの上陸部隊は、日本軍の砲台からの砲撃で大損害を受けた。
これに対してアメリカ軍は戦艦・巡洋艦による艦砲射撃を加え、さらに艦載機による航空攻撃を行った。
それらの攻撃により日本軍の弾薬庫が被弾、大爆発した。
このような様子を見ていたアメリカ軍側では、島に生きている人間は残っていないのではないかと感じたという。
しかし、日本軍は地下陣地やトーチカに籠もり、反撃の機会を伺っていた。
この状況はちょうど、硫黄島の戦いの冒頭でも似ている。
さて、艦砲射撃・航空攻撃の後に再度上陸を目指した海兵隊員たちであったが、上陸地点450m手前の珊瑚礁で、ふたたび日本軍守備隊は一斉砲撃を開始し、続々とLVTが命中弾を受けた。
また、LVTではなく上陸用舟艇で迫った海兵隊員は、珊瑚礁手前で上陸用舟艇を降りなければならなかった。珊瑚礁上の水深が浅すぎたためである。
そしてもちろん、上陸用舟艇を降りた海兵隊員が日本軍からの機銃掃射を受けることとなった。
この時点で、アメリカ軍上陸部隊5000名のうち、3分の1が死傷したとされる。アメリカ軍側はこの状況を見て、再度艦砲射撃・航空攻撃という、総力を挙げた攻撃を行った。
日本軍側の損害ももちろんあり、守備隊の指揮をとっていた柴崎恵次少将もこの砲爆撃の直撃弾を受け戦死している。
戦闘経過~米増援部隊との戦いから終結へ
アメリカ軍が陸海空総力を挙げて攻撃しつつ、上陸部隊に多大な被害を出した11月21日の戦闘であったが、この日はわずかな上陸部隊を海岸に残した状態で戦闘を終えた。
日本軍はこの日、得意の夜襲を行わなかった。
その理由は、翌22日の午前の戦闘で判明することになる。
22日午前6時、アメリカ軍の増援部隊が海岸へ向けて進撃を始めたところ、海岸砲・迫撃砲による砲撃にくわえて、なんとアメリカ軍の背後からの機銃掃射が加えられた。
まったく予想していなかった方向からの銃撃に、アメリカ軍は多大な犠牲を払わされた。
これは、夜闇に紛れて、海岸から約600mの地点で座礁していた日本の輸送船「斉田丸」の残骸に機銃を据え付けたものからの銃撃だった。
この「斉田丸」から攻撃を受けたアメリカ軍は、すぐさま「斉田丸」を攻撃した。
F6F戦闘機4機による機銃掃射、次いでF6F戦闘機3機に搭載した小型爆弾による爆撃で、1発の直撃弾を受けたものの、機関銃座は無傷だった。
さらに12機ものF6F戦闘機が次々と「斉田丸」に殺到し、爆弾を投下していったが、「斉田丸」機銃陣地は奇跡的に無傷で攻撃を続けた。
手を焼いたアメリカ軍はとうとう、工兵部隊による決死隊を組織して斉田丸に接近、直接高性能爆薬を仕掛けたことにより、ようやく斉田丸を沈黙させることに成功した。
アメリカ軍は斉田丸制圧後、午後3時ごろにようやく1個大隊、軽戦車中隊を揚陸させることに成功、島の西岸沿いから進撃した。
日本軍は司令官を失った後もトーチカに籠もり頑強に抵抗したため、アメリカ軍は火炎放射器・爆薬によってトーチカを1つ1つ処理しつつ進軍した。
22日の夜までに、おおむねアメリカ軍は西海岸から南海岸へ至り、日本軍を東西に分断、翌23日には日本軍の抵抗はおおむね終結した。
日本軍は最後に残った守備隊110名が、23日夜に3度にわたって最後の突撃を敢行、日本軍は捕虜となった者はごく少数で、文字通りの「全滅」となったのだった。
「恐怖のタラワ」と呼ばれた戦い
タラワの戦いは、その戦闘エリアから見れば小さい場所であり、また最終的に見ればおよそ3日間の戦いでアメリカ軍側の勝利、日本軍は全滅と、決してアメリカ側にとって悪い結果ではなかったかのように見える。
しかし実際には、アメリカ軍側の損害は決して軽くはなかった。
アメリカ軍は最終的に、日本軍が4800名で守る島に対して、計35,000名が戦闘に参加した。(海兵隊のみではなく、駆逐艦や戦艦、空母人員も含む)
そして、最終的に戦死者1,009名、戦傷者2,296名を出したのである。
この損害はアメリカ国内でも大きく報じられ、指揮に対する批判が高まったほか、記録映画を放映したところ志願兵の応募率が下がるなどの影響があったという。
このような戦闘の内容から、「恐怖のタラワ」と呼ばれるに至ったのである。
おわりに
太平洋戦争における島嶼での戦いは、実に指揮官によって大きく分かれるように感じられる。
海岸線・水際防御に重点を置くという方法をとって、艦砲射撃によって早期に壊滅する、敵が上陸してきたら夜間切込みを絶対に行い損害を増やしてしまうという内容になる、というのが多くの「失敗例」だ。
しかしこのタラワや硫黄島、沖縄の戦いなどでは、地下陣地の構築や無理な夜襲を極力制限し、戦力を温存することで敵に多くの損害を与えるという指揮を実現した指揮官もいる。
現在、タラワ環礁にはタラワの戦い当時に使用された日本軍の砲台などの一部が残っているほか、戦没者の慰霊碑もある。
そしてなにより、現代のタラワには美しい海と珊瑚礁がある。
日本軍守備隊はこの地を守り切るという悲願を達成できなかったが、「タラワ」の名は「美しい珊瑚礁を持つ島」として、そしてアメリカ軍にとっては「恐怖の地」として、人々の記憶に残っている。
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