偉業を成し遂げる人というのは、大なり小なり変わった人物であることが多い。
NHK朝の連続テレビ小説「らんまん」で神木隆之介さん演じる主人公のモデルとなった牧野富太郎もかなり個性的な人物だ。
小学校中退でありながら独学で植物を研究しつづけ、理学博士の学位を取得。94年の生涯において収集した標本は約40万枚、新種の発見や命名は1500種にのぼる。
そのめざましい功績から、「日本の植物学の父」と呼ばれた高名な植物学者である。
しかし実生活では常に貧乏がつきまとっていた。尋常ではない金銭感覚から家計は常に火の車。莫大な借金を抱えていたのである。
牧野富太郎の生涯
1862(文久2)年、牧野富太郎は、現在の高知県高岡郡佐川町に生まれた。生家は名字帯刀を許された裕福な商家で、雑貨商と酒造業を営んでいた。
牧野は幼い頃に両親を亡くし祖母に育てられた。社会的にも経済的にも恵まれた環境の中、寺子屋や私塾へ通い、藩校では数学や物理学、天文学などの本格的な学問に接し、優れた教育を受けた。
その後学校制度が開始され、13歳で小学校へ入学したが、教育のレベルの低さに2年で中退。祖母からの惜しみない援助を受け、幼少のころから好きだった植物の研究を独学で行っていく。
本格的に植物学を志すようになった牧野は上京し、1884(明治17)年、東京帝国大学理科大学植物学教室への出入りを許され、植物分類学の研究に没頭した。
1889(明治22年)年には新種「ヤマトグサ」を発見し、自ら創刊した『植物学雑誌』に発表した。
これは、日本人が国内で初めて学名をつけた快挙であった。また、食虫植物「ムジナモ」に花が咲くことを発見したことから世界からも認められ、名実ともに植物学者の道を歩み出した。
しかし、牧野は植物学教室の教授たちと良好な関係を築くことができず、薄給のため借金で生活が困窮してしまう。
それでも周りの人々に支えられて研究をつづけた結果、40万枚もの標本を残し、約1500種類以上の植物を命名した。
78歳で研究の集大成「牧野日本植物図鑑」を刊行。
日本全国をまわって植物知識の普及にも尽力し、日本植物分類学の基礎を築いた一人となった。
大借金生活
東京帝国大学の植物学教室に出入りする一書生として、牧野は実家から送られてくる潤沢な資金をもとに研究に没頭していた。食べたいものを食べ、着たいものを着て、金が足りなくなれば実家へ無心する。大学へは人力車で通い、植物誌の発行に必要とあれば印刷機まで買ってしまう。
研究のためなら湯水のように金を使い、ひとたび本屋へ入れば、古書でも高価な洋書でも次から次へと欲しい本を棚から取り出し、まとめて大八車で自宅へ届けさせた。
しかし、そのような生活にも終止符が打たれることになる。実家が破産したのだ。自身の研究のために6代続いた由緒ある生家を潰し、牧野は大借金生活に突入する。
1893(明治26)年、牧野は東京帝国大学理科大学の助手となった。月俸は15円。仕送りがなくなっても金遣いの荒さは以前と変わらなかった。次から次へと子どもが生まれ、その数13人。無事に育ったのは7人とはいえ、生活費だけでも15円で収まるはずはなかった。
家には借金取りが押しかけ、家財道具には何度も差押札を貼られた。家賃が払えず家主から追い出され、何度も引っ越しをした。
膨らみ続けた借金は、1916年(大正5年)54歳のときには3万円になっていた。東京帝国大学理科大学講師だった牧野の俸給は30円、月俸の千倍もの借金を抱えていたのである。
救世主が現れる
不思議なことに、ピンチに陥った牧野には必ず救世主が現れた。
大学で職を追われた時にも彼の復職を嘆願してくれる人がいたし、莫大な借金でどうにもならない状態の時にも借金を肩代わりしてくれる人物が現れた。しかも、一度ならず二度も借金の清算をしてもらっているのである。
一度目は、大学の助手時代につくった2千円以上の借金である。同郷の友人の助力により、同じ土佐出身で三菱の創業家である岩崎家に支払ってもらった。
二度目は、講師時代の3万円である。苦労して採集した標本を売却しなければならないほどに、牧野家の生活は追いつめられていた。
この人生最大の危機を救ってくれたのは、資産家の池長孟(いけながはじめ)だった。池長は標本30万点を3万円で買い取ることにし、さらに牧野への経済援助として池長植物研究所を設立。毎月研究費を送ることと引き換えに、月に一度、研究所へ出張することを命じたのだった。
こうして莫大な借金から牧野は逃れることができた。その後も窮地に陥るたびに、彼の才能を高く評価する周囲の人々が手を差し伸べた。
それもまた、牧野富太郎の比類なき才能だったのかもしれない。
参考文献:渋谷章著 『牧野富太郎 私は草木の精』.平凡社
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