「首相」「総理」とも呼ばれる、日本国における「内閣総理大臣」は、政治・行政の面でもっとも重要な職業である。
現代日本においても、誰が内閣総理大臣となるのかについては関心が高まるところだが、太平洋戦争中、「天皇に請われる」という異例の理由で総理を務めた人物がいる。
それが「鈴木貫太郎」だ。
異例の理由で総理となり、日本のポツダム宣言の受諾、そして太平洋戦争の終結に尽力した鈴木貫太郎について、この記事で解説しよう。
鈴木貫太郎とは
鈴木貫太郎(1868年〜1948年)は日本の元内閣総理大臣であり、海軍軍令部長であり、連合艦隊司令長官でもあった人物だ。
鈴木の軍人としてのキャリアは1884年に海軍兵学校へ入学したことから始まる。1895年には日清戦争に従軍し、威海衛の戦いに参加した。
1903年にドイツに駐在中だった鈴木は、ロシアとの関係が緊迫している状況から対ロシア戦を睨み、イタリアでアルゼンチン向けに建造中だった装甲巡洋艦を急遽購入して「春日」と命名した。鈴木はその春日に乗艦し、そのまま日露戦争における「黄海海戦」に参加。
その後、「鬼貫」と部下に呼ばしめるほどの猛烈な高速近距離射法の訓練を行い、日本海海戦ではロシア軍戦艦3隻に対して魚雷を命中させるなどの活躍を見せた。
1923年には海軍大将、1924年には連合艦隊司令長官、1925年には海軍軍令部長と、重要なポストを歴任した。1929年には昭和天皇・貞明皇后の希望により、予備役となって侍従長(じじゅうちょう)の職についた。
侍従長は戦前日本では天皇と直接話をする要職であり、鈴木は昭和天皇の話し相手に徹することで絶大な信頼を置かれるようになった。
しかし、このような鈴木の振る舞いは国家主義者からは「君側の奸」と見なされて敵視され、この後の二・二六事件につながることとなる。
「叛乱軍」から四発撃たれても命を取り留めた「二・二六事件」
二・二六事件とは、簡単にいえば陸軍内での思想対立から生まれたクーデター事件である。
すなわち、統制派と皇道派との対立であった。
参考記事 :
二・二六事件とはどのような事件だったのか? 【元総理暗殺事件】
https://kusanomido.com/study/history/japan/shouwa/59841/
統制派は軍内部の規律統制、陸軍大臣を通じての政治上の要望を実現するという主義であったが、皇道派は天皇親政、財閥規制などの目的を実現するため、「結果を顧みず捨て石たらん」という思想のもとに、過激な行動に出ることを警戒されていた。
結果、こうした思想を持った陸軍の若手皇道派青年将校らが、「農村困窮・政治腐敗の改め」、「尊皇斬奸」「昭和維新」などの標語を掲げて決起した。
そして「君側の奸」と彼らに見なされた政治家の中に、当時の侍従長、鈴木貫太郎も含まれていたのである。
1936年2月26日、侍従長官邸に帰宅した鈴木だったが、午前5時頃、安藤輝三率いる一隊が官邸を襲撃した。
鈴木は兵士らから頭と左胸、肩、左足付け根と四発の銃弾を受けて倒れた。止めとばかりに軍刀を抜いた安藤を制止したのは、鈴木の妻「たか」であった。
「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と毅然と言い放ち、安藤はそれを受けて軍刀を収めたという。
鈴木は安藤の一隊が立ち去った後、血の海と化した部屋の中でたかに対し「もう賊は逃げたかい?」と尋ねた。つまり、鈴木は四発の銃弾を受けてもなお意識は鮮明だったのである。
病院に搬送された鈴木は意識を喪失、心臓も停止したが、奇跡的に息を吹き返した。
左胸の弾丸はギリギリで心臓から外れており、頭に入った銃弾は貫通して耳の後ろから飛び出したが、それが幸いして、命を落とさなかったのだという。
「頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と天皇に請われて総理へ
鈴木はその後、1945年に枢密院議長に就任したが、その当時、戦況の悪化の責任をとるとして辞職した小磯國昭の後継として、誰が総理となるのかが問題となっていた。
重臣会議では、昭和天皇の信任が厚い鈴木を推す声が多かったが、鈴木は「とんでもない話だ、お断りする」と答えていた。
しかし、昭和天皇は重臣会議の結論を聞いて鈴木を呼び、大命降下をしたのである。
鈴木は「軍人は政治に関与してはならない」という信念を元になおも辞退しようとしたが、昭和天皇から「鈴木の心情は良くわかる。しかしこの重大な時にあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」とまで請われ、さすがに断りきれなくなり総理に就任することとなった。
なお、天皇から請われて総理となるのはきわめて異例なことであった。
鈴木貫太郎内閣の終戦工作
鈴木自身は海軍軍人というキャリアを持っていたものの、総理としての鈴木に与えられたミッションは、シンプルに「終戦」であった。
鈴木が総理に就任した当時は、ソ連に対して米英との仲介を働きかけるという方針であった。こうした中、イギリス、 アメリカ、中華民国の政府首脳の連名においてポツダム宣言が発表された。
当時外務省を経由して宣言の内容を知った政府は、「ソ連政府が署名していない」ことからソ連経由での講和に期待し、ポツダム宣言に対しては明確に受諾は表明しないが拒否もしない「黙殺」という態度をとろうとした。
しかし、この「黙殺」というコメントは本来「no comment」の意味であったものが、連合国側では「reject(拒否)」と報道された。
このことは、日本に対する原子爆弾投下への最終決断に影響したという見方もある。
鈴木は本心では「ノーコメント」と言いたかったが、陸軍からの「国体護持や日本軍の無条件降伏に対して、拒否を明らかにすべき」という圧力によって「黙殺」というコメントを出さざるを得なかったという解釈もある。
この後、鈴木は立憲君主制をとる大日本帝国憲法下では異例の「聖断」をあおぐ形で、ポツダム宣言を受諾、そして終戦へと導いていった。
しかしポツダム宣言の受諾に際しては、陸軍参謀の一部によるクーデター未遂事件である「宮城事件」が発生したほか、同調した動きとして「国民神風隊」による首相官邸・鈴木の私邸への襲撃が行われた。
関連記事 :
宮城事件とはなにか?「ポツダム宣言をめぐり日本でクーデター未遂事件があった」
https://kusanomido.com/study/history/japan/shouwa/52590/
鈴木はここでも命を狙われる事態となったのである。この時、鈴木は間一髪で警護官に救い出されている。
戦後の鈴木貫太郎
日本がポツダム宣言を受諾した後、鈴木は1946年6月3日に「公職追放令」の対象となったため、郷里の関宿町に帰った。
その後は元内大臣の木戸幸一が書いた「木戸日記」などを熟読し、太平洋戦争の開戦経緯などを調べ、気になった箇所に書き込みを行っていたという。
開戦までの経緯に関して木戸日記には、「昭和天皇には開戦準備より外交交渉を最優先にしたいという意思があったが、発言を控え目にするように進言した」という旨の記述があり、これに対して鈴木は、「この点、木戸君の考えは禍根なり」と厳しい書き込みを残している。
1948年、鈴木は郷里の関宿町で肝臓癌によって死去した。(享年81)
死の直前に非常に明朗な発声で「永遠の平和、永遠の平和」と、2回繰り返したという。
おわりに
太平洋戦争では、軍人・民間人問わず多くの被害者が発生した。
日本国の将来を左右するギリギリの状況の中で、命を狙われながら終戦のための邁進したのが鈴木貫太郎だった。
鈴木の最期の言葉、「永遠の平和、永遠の平和」は、最後の力を振り絞って遺した「言霊」だったのかもしれない。
参考文献 : 鈴木貫太郎 昭和天皇から最も信頼された海軍大将
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