「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ。」
これは太宰治の小説『斜陽』に出てくる有名な一節だ。
太宰が書いた数々の名作の中でも、最高のロマン小説といわれる『斜陽』の主人公は“かず子”という没落貴族の娘だが、そのかず子のモデルとなった女性が実在していたことはご存じだろうか。
今回は太宰治の愛人にしてかず子のモデルといわれる女性、太田静子について解説していく。
太田静子の生い立ち
静子は大正2年、滋賀県の開業医の家に生まれた。
実家は大分中津藩の御典医を務めた代々医者を生業とする家系で、由緒正しき家柄のお嬢様として育った。静子自身は学生の時から口語短歌を詠み始め、21歳の時には歌集『衣裳の冬』を刊行している。
静子は実践女学校家政科に入学したが、弟のすすめで国文科への転科を試みる。しかし両親に知られて叱責され退学してからは、東京で弟と暮らしながら詩歌などの創作や絵の勉強など、芸術の創作に精を出していた。
昭和13年の11月に弟を通じて出会った東芝社員の計良長雄から熱烈な求婚を受け結婚するが、翌年に生まれた娘を生後1ヶ月で亡くし、そのさらに翌年には離婚した。
太宰治との恋と妊娠
独り身となった静子は、弟にすすめられて太宰治の『虚構の彷徨』を読み感銘を受けた。
愛せなかった元夫との間に生まれた娘の死にまつわる、罪の意識を日記風に記した告白文と、小説の指導を願う旨を書いた手紙を太宰に送ったところ、太宰本人から返事が届いた。
「お気が向いたら、どうぞおあそびにいらして下さい」
太宰からのその言葉を頼りに、静子は昭和16年の9月に友人と共に太宰の自宅に訪問、その折に太宰から日記を書くことをすすめられる。そしてその年の12月、太宰から呼び出されてから2人の秘密の恋が始まった。
しかし時代は太平洋戦時下、ただでさえ道ならぬ恋は順調にはいかず、初めのうちこそ太宰も熱心に静子に愛を伝え会いにも行ったが、やがて会えない日々が続くようになる。静子は太宰と会えない間も思いを募らせ日記を書き続けた。
昭和22年1月、静子は太宰の呼び出しに応じて三鷹にある太宰の仕事部屋を訪れた。新しく書く小説の題材として日記を提供するよう太宰に頼まれるが、静子は自分が暮らす下曾我村に太宰が来ることを日記を渡す条件とし、翌月訪ねてきた太宰に、約束通りに日記は提供した。この時に静子は太宰の子供を身籠る。
5月になると、静子はお腹にいる子供のことについて相談しに太宰を訪ねるが、太宰から冷たくあしらわれ、「太宰は実は小説の材料目当てに自分に近づいてきたのでは」という思いを抱く。
この時に静子は、後に太宰と心中する山崎富栄と顔を合わせている。
自分やこれから生まれてくる子供と向き合ってくれない太宰に対し、静子は失望した。結局は静子をモデルとして太宰が描いた油絵を持たされ、下曾我に帰るしかなかった。
静子が生きている太宰に会えたのは、この時が最後だった。
出産と『斜陽』発刊、そして太宰の死
昭和22年11月、静子は34歳で未婚の母として女の子を生んだ。その3日後には静子の弟が太宰の元を訪れ、生まれた子供の命名と認知を願い出る。
太宰は本名である津島修治から治の字を生まれた子に授けて「治子(はるこ)」と名付け、この時に養育費の支払いも約束している。
そしてその1月後の12月15日に、『斜陽』の単行本が刊行され、当時の大ベストセラーとなった。
没落貴族を指し示す「斜陽族」という言葉も生まれ、太宰は一躍時の人となる。
多忙を極める太宰だったが、太宰が静子と治子に会える機会は何度かあった。
しかし太宰は妻や富栄に気を使ったのか、治子に情が湧くことを恐れたのか、それとも静子という存在から逃げたかったのか、1度も静子たちに会いに行くことはなかった。
昭和23年6月13日、太宰は富栄と共に玉川上水に身を投げた。
斜陽日記
太宰が心中を果たした後、静子は太宰の友人伝いに相続財産代わりの金を受け取り、それ以降津島家から関りを断たれる。
津島家とは「金を受け取る代わりに太宰に関わる情報を世間に公開しない約束」をしていたが、静子が記した『斜陽』の材料となった日記をぜひ出版させてほしいという出版社の申し入れを受け、昭和23年9月に『斜陽日記』の名で刊行された。
日記の内容は『斜陽』とそのまま重なることが多かったために世間からは捏造を疑われ、静子はそれを悲しがったという。
静子は一時は「文を書くことで生計を立てよう」と考えたが、うまくはいかなかった。
昭和26年には子宮がんを患ったが、手術後回復してからは兄弟の支援を受けながら、シングルマザーとして娘を育てるために必死に働いた。決して裕福な生活ではなかったが、娘を大学まで出すこともできた。
昭和57年11月、静子は肝臓がんを患い69歳で亡くなった。激動の昭和を自分の意思と選択によって、波乱万丈に生きた生涯だった。
女性が自らの選択で自分自身の人生を生きる勇気
大学卒業後、OLやNHKの番組アシスタントを経て、作家となった静子と太宰の娘・太田治子氏は、生前の母のことをとても明るい性格の女性だったと語っている。
静子は治子の前では太宰のことをお父様ではなく「太宰ちゃま」と呼び、実の父親が他の愛人と心中で亡くなったという重苦しい事実も、まるでおとぎ話の出来事かのように娘に話していたという。
昭和という女性の自由が少ない時代、ましてや家柄の良い女性には自由恋愛などほぼ許されていなかった。しかしそんな息苦しい時代の中で、静子は自らの美学に従い、自分で惚れた男に精一杯恋をして、女性は家庭に入り子を生み育てるものという道徳に革命を起こした。
「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ。」
静子の生涯は他の誰でもない、静子自身が日記に記したその言葉と意思を、貫き通したものだったといえるだろう。
参考文献
斜陽日記/太田静子
明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子/太田治子
心映えの記/太田治子
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