下田歌子は、日本の女子教育の先駆者であり、「実践女学校」を創設した歌人であり教育者です。
彼女は明治から大正、昭和にかけて生き、その生涯を女子教育の発展に捧げました。
結婚生活はわずか4年で夫と死別しますが、休む間もなく、昭憲皇太后の意向により宮内省御用掛に任命され、華族女学校の創設に尽力します。
その後、欧米への視察を通じて、歌子はイギリスで王族や貴族だけでなく、一般女性も充実した教育を受けていることに驚きました。この経験が、後に彼女が実践女学校を開校する上で、大きな影響を与えたとされています。
今回は、下田歌子が欧米視察で得た近代女子教育の理念に焦点を当て、その影響を探っていきます。
目次
美濃国恵那郡岩村で生まれ、宮中では「歌子」の名を授かる
下田歌子は、1854年9月に美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市岩村)の岩村藩士である父・平尾鍒蔵(じゅうぞう)と母・房(ふさ)の長女として生まれました。
幼名は鉐(せき)といい、幼い頃から祖母の貞子に和歌や俳句、漢詩を教わり、学問に対する強い関心を持ちました。
1870年、勤王派であった父が幽閉を解かれ、明治政府の役職に就いて上京すると、翌年には16歳の鉐も東京へ向かいました。東京では、祖母と離婚していた祖父・東条琴台の紹介により、宮内省歌道御用掛の八田知紀に入門し、和歌の才能をさらに磨きます。
1872年、歌子は皇后の女官として宮中に仕えることになりました。
そして、彼女が詠んだ和歌に感動した皇后から、「歌子」という名を賜り、以後「歌子」として活躍するようになります。
歌子は宮中で8年間仕え、その間にフランス語や和漢洋楽を学び、幅広い教養を身につけたのです。
結婚、夫の病死、華族女学校への貢献
1879年、25歳のときに歌子は宮中を辞し、翌年に下田猛雄(たけお)と結婚しました。
猛雄は剣術道場を開いていましたが、間も無く病床に伏したため、歌子は夫の看病をしながら生活を送りました。
その最中、政府から上流階級の子女の教育を担当する学校の設立を依頼されます。
明治維新後の日本は「富国強兵」を掲げ、欧米諸国のような近代国家を目指していました。国を強くし、軍事力を高めるために、教育の充実が不可欠とされ、国民全体の基礎教育や、女性には読み書きや裁縫など実用的な技能の教育が推進されました。
1882年、歌子は東京・麹町一番町に私立女学校「下田学校」を開校します。
この学校には、伊藤博文や井上毅など当時の高官の子女も通い、教育が行われていました。
また、アメリカから留学を終えて帰国した津田梅子が、同校で英語教師を務めています。
津田梅子は後に、女子英学塾(現在の津田塾大学)を開校し、女子教育に貢献する人物となります。
そして1884年5月、歌子の夫・猛雄が病死してしまいました。
しかし、歌子はその年の7月に皇后からの要請を受け、華族女学校(後の女子学習院)創設準備のため、宮内省御用掛として再び宮中に戻ります。
翌1885年11月、皇后も臨席のもと、華族女学校の開校式が行われました。
先進国視察のため欧米諸国へ向かう
1893年、40歳になった歌子は、明治天皇の内親王の教育を目的として、先進国の教育制度を視察することになりました。
彼女はイギリス・ロンドンで、エリザベス・アンナ・ゴルドン夫人の家庭に寄宿し、英語や家事、そして子供の教育について学びます。
また、ゴルドン夫人の紹介により、ポートランド伯爵夫人とともにさまざまな教育施設を視察しました。
王族や貴族の女性が、男性と同じように乗馬やボート漕ぎをしている姿を目にし、歌子は驚くと同時に「体育も女子教育には必要だ」と強く感じたそうです。
さらに、ケンブリッジ大学の女子寮や女子教員養成学校を訪問し、教育の重要性が上流階級に限られず、中流や下流の人民にも必要であることを学びました。
明治天皇の皇女である常宮、周宮の教育を目的とした欧米視察でしたが、歌子はこの経験を通じて「一般女性への教育こそが、女性の地位向上や国の発展に繋がる」と確信したのです。
その後、歌子はフランス、イギリス、ドイツ、スイスなどの欧州6カ国とアメリカを視察し、2年にわたる視察を終えて1895年に帰国しました。
イギリスでは、バッキンガム宮殿でヴィクトリア女王にも謁見しています。
1895年に帰国した歌子は、華族女学校に復職。
翌1896年には、明治天皇の内親王の教育を担当し、高輪御殿(現・東宮御所)にて、皇女周宮のご成婚までの13年間、その任務を続けました。
学校設立のため「帝国婦人協会」を設立
1898年、歌子は帝国婦人協会を設立します。
この協会は、「多くの女性が、新たな時代を生き抜くために必要な教養と自覚を育む」という理念を掲げ、歌子は会長としてその運営に尽力しました。
引き続き、華族女学校で内親王の教育を続けながら、一般女子の教育を全国に広める活動も続けたのです。
協会の設立後、歌子は学校設立のための募金活動に奔走します。
彼女の目標は、「上流階級に偏らず、一般女性にも知識や技能、品格、そして自立の力を養う機会を与える」ことでした。
民間女学校の設立は、こうした目的を果たすための大きな一歩だったのです。
帝国婦人協会・私立実践女学校を開校
1899年、歌子により実践女学校・女子工芸学校が、東京市麹町区元園町(現在の千代田区)に設立されました。
歌子はその校長に就任し、日本の伝統的な教養である和歌や古典と、欧米視察で得た実践的な学問を融合させた教育を行いました。
1893年には、歌子の著書「家政学」が博文館から発行されました。この本では、衣服や料理、住居、礼法など生活全般に関する知識が上巻と下巻に分けて詳述されています。さらに、1900年には欧州視察で得た知識を反映させた「新選家政学」も発行しました。
歌子は、国家の政が「国政」であるなら、家庭の政は「家政」とし、家庭生活においても知識を活かし、健康にも配慮することで幸福を築くことが大切だと考え、家政学の教育に力を入れていました。
この頃、歌子は新潟において裁縫伝習所として新潟女子工芸学校(現在の新潟青陵学園)を設立。また、順心女学校(現在の順心広尾学園)の運営にも携わっています。
歌子が携わったこれらの学校では、授業料が低く設定され、進学しやすいよう配慮されていました。
晩年の歌子の活動と死
実践女学校が開校した翌年、歌子は新潟を皮切りに、1900年から1925年にかけて日本全国で講演活動を行っています。
その目的は、一般女子教育の普及を促進することにありました。
1901年に奥村五百子が設立した愛国婦人会は、歌子も発起人の一人でした。
この愛国婦人会は、日清戦争で障害を負った兵士や、その遺族を救済することを目的としていました。
歌子は1920年に愛国婦人会の会長に就任し、1923年に発生した関東大震災では、愛国婦人会を中心に救援活動を行っています。
また、1935年には故郷の岩村町において、歌子の功績をたたえる記念碑が建立され、歌子自身も除幕式に出席しています。
晩年、歌子は闘病生活を送りながらも教育への情熱を持ち続けていましたが、1936年10月8日、82歳でその生涯を閉じました。
実践女子学園の教育理念である「品格高雅にして自立自営しうる女性の育成」は、今もなお、歌子の建学精神として受け継がれています。
参考:『下田歌子小伝 実践女子大学』『すべての女子に自活できる知識と技能と品格を 松田十刻』
文 / 草の実堂編集部
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