朝ドラ「あんぱん」で、幼なじみとして描かれている“たかし”と“のぶ”。
しかし、モデルとなったやなせたかし氏と小松暢さんが実際に出会ったのは、高知新聞社の編集部でした。
真正面の席に座る暢さんに、思わず一目ぼれしてしまったやなせ氏でしたが、自信のなさから気持ちは胸に秘めたまま、なかなか気持ちを伝えられません。
そんな彼がある日、思いがけない行動に出ます。
まさかの展開が二人の運命を変えることになるとは、当の本人さえ想像していなかったでしょう。
やなせ氏と暢さんは、どのように愛を育んでいったのでしょうか。
運命の出会いから恋人になるまで、二人のなれそめエピソードを紹介します。
初めての出会いは試験会場

画像 : イメージ(若尾文子 1954年)public domain
戦地から復員したやなせ氏は、昭和21年5月、高知新聞社の入社試験を受験しました。
偶然にも会場の受付を担当していたのは、のちに妻となる小松暢さんでした。
しかしこの段階では、お互い特に気にかけていなかったようです。
当時は、終戦直後の就職難。仕事にありつけるかどうかがかかっている大事な試験で、やなせ氏に周りを気にする余裕はなかったのかもしれません。
応募者70人、合格者5人という難関を突破し、5月24日、やなせ氏は無事、高知新聞社に入社しました。
暢さんは、一足先の2月に入社していたので、3ヶ月ほど、やなせ氏の先輩にあたります。
このとき、二人は27歳でした。
「月刊高知」編集部で暢さんに一目ぼれ

画像 : イメージ(映画『張込み』1958年)public domain
入社後、やなせ氏は社会部に配属されました。
ところが、1ヶ月もたたないうちに「月刊高知」編集部へ異動になります。
この頃、人々は娯楽に飢えており、雑誌の復刊や創刊が急増していました。
高知新聞社も雑誌「月刊高知」を創刊することになり、やなせ氏は編集部員となったのです。
「月刊高知」編集部は、フロアの片隅をベニヤ板で囲っただけの編集室に、メンバーはたったの4人という小所帯でした。
編集長は、高知新聞の編集局次長だった青山茂氏。
やなせ氏と同じ城東中学校卒で、早稲田大学時代には、水泳の日本記録保持者として有名でした。
記者時代は高知の文化の先駆けを担うジャーナリストとして鳴らし、やなせ氏にしてみれば大先輩であり大ベテランなのですが、一緒に街を歩いていると
「あら青山の坊ちゃん、大きくなって」
と言われて照れているのが、おかしかったそうです。
編集部員には、やなせ氏より7カ月前に入社した品原淳次郎氏と、暢さんが名を連ねていました。
品原氏は、やなせ氏より5歳下で、メンバーからは「淳ちゃん」と呼ばれていました。
イケメンで文学をこよなく愛する淳ちゃんは、昭和25年に「月刊高知」の廃刊を見届けたのち、新聞社の文化部長や社会部長、東京支社長を歴任。
その後、高知放送でニュースキャスターになりました。
残る部員の一人、暢さんについて、やなせ氏は自伝でこのように書いています。
「仕事もですが、デスクの前に座っている小松記者を好きになってしまいました。
美少女タイプで人気がありました。
一見色白でかよわそうに見えるのですが、女学生のときは「イダテンおのぶ」の異名をとった短距離のランナーで体育会系の硬派です。
さっぱりとした性格で、雷が鳴ると、「もっと鳴れ!」と紫色の稲妻を見て喜んでいる。」
やなせたかし著『人生なんて夢だけど』より
「月刊高知」は、たった4人のメンバーで企画から編集、取材、執筆に製本、広告営業から集金、原稿依頼まで、全ての業務をこなさなければなりませんでした。
そのため、やなせ氏は表紙や挿絵を描いたり、座談会の司会をしたりと日々奔走していました。
目の回るような忙しさでしたが、仕事にはやりがいがあり、また職場で暢さんに会える楽しみもあり、会社に行くのが待ち遠しいほど充実した日々だったそうです。
恋愛に自信のないやなせ氏
暢さんのことを知れば知るほど、彼女に夢中になっていくやなせ氏でしたが、一方でこんな思いも抱いていたようです。
「兵隊から帰ってきて就職して、逢った人をいきなり好きになるとは簡単すぎる。
恋のアバンチュールがあり、五、六人はこなして紆余曲折の末に結ばれるのがいいと思っても好きになったからしようがない。」
やなせたかし著『人生なんて夢だけど』より
暢さんと出会う前、やなせ氏は何度か恋愛をした経験があるのですが、残念なことにどの恋も成就しませんでした。
暗い公園でデートしたときのことです。
寄り添って歩く二人の周りのベンチには、何組ものカップルが抱き合っていて、その雰囲気に彼女はのまれてしまったのでしょう。
「ねえ、殺し文句を言って」と、やなせ氏にしがみついてきました。
いきなり難しいお題を与えられ、なんとかうまいことを言おうと、映画や小説の気の利いたセリフを思い出そうとするのですが、こういう時に限ってなにも思い浮かびません。
ああでもないこうでもないと考えているうちに、いつの間にか二人は明るい街中へと出てきてしまい、彼女の熱も冷めてしまったようです。
「あなたっていい人だけどダメね、さよなら」
あっさりと振られてしまいました。
また、こんなこともありました。

画像 : 芸者歌手「市丸」(1930年代に発売されたブロマイド) public domain
「後年のことになるが、ぼくがかけだしの漫画家になった時、美人芸者の歌手として有名だった市丸ねえさんにインタビューしたことがある。
ぼくは男女のことについてちょっと色っぽい質問をした。
市丸ねえさんは苦笑して言った。
「およしなさいな、あなたには似あいませんよ」
ぼくはシュンとなってしまった。」
やなせたかし著『アンパンマンの遺書』より
酸いも甘いも噛み分けた美人芸者の市丸さんにこう言われては、身もふたもありません。
ちなみに市丸さんは、戦前に首相を務めた近衛文麿公爵の愛人でした。
女性の心の機微に疎く不器用なやなせ氏には、恋のアバンチュールも5、6人こなすのも無理だったようです。
ふとしたはずみで暢さんの唇を奪う

画像 : イメージ(映画『わが青春に悔なし』1946年) public domain
編集部全員で取材に行った東京出張の後、二人の距離はぐっと縮まりました。
そして、ある日、やなせ氏は自分でも思いもよらぬ大胆な行動に出ます。
「ぼくは女の子にはモテないタイプと思っていたので愛の告白はしませんでしたが、ふとしたはずみで小松さんにキスしてしまった。
そのとき、彼女の身体が突然重くなって、全身の力が抜けてぐったりと胸の中に倒れ込んできたのにはびっくりしました。
男まさりの気丈の女性と思っていたのにいじらしく、たちまち「この人と結婚しよう」と思ってしまったのはぼくも純真。」
やなせたかし著『人生なんて夢だけど』
二人は互いの思いを知り、晴れて恋人同士になりました。
めでたしめでたしと言いたいところですが、この後、暢さんは速記の腕を買われ、転職してしまうのです。
「先に行って待ってるわ」という言葉を残し、さっさと東京へ行ってしまった暢さん。
一人残されたやなせ氏に決断の時が訪れるのは、もう少し先のことでした。
参考文献
やなせたかし『人生なんて夢だけど』フレーベル館
やなせたかし『アンパンマンの遺書』岩波書店
高知新聞社『やなせたかし はじまりの物語:最愛の妻 暢さんとの歩み』
文 / 草の実堂編集部
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