NHK「ブギウギ」で、菊地凛子さん演じる茨田りつ子のモデルとして話題の淡谷のり子。
歌のために強情を貫いた一本気な性格の持ち主として有名な彼女ですが、霊感が強いという一面もあったそうです。
今回は、淡谷のり子の不思議な体験をご紹介します。
幽霊に首を絞められる
終戦から2年くらい経ったころ、淡谷のり子は公演のため山口県宇部市を訪れていました。
公演は3日間の予定で、その日は2日目の夜でした。ステージで少し面白くないことがあったので、のり子はバンドのメンバーと酒を飲んでうっぷんをはらし、宿へと戻りました。
一番上等な離れの部屋へ戻ると、一足先に帰ったマネージャーから「女中さんがサインして欲しいって置いていったわよ」とサイン帳を渡されました。
疲れていたし時間も遅かったので、サインは明日。床の間の違い棚にサイン帳を置き、一風呂浴びて、白い蚊帳の張られた布団にもぐり込みました。
寝つきがいいのり子ですが、この日に限ってなかなか眠れません。隣でスヤスヤと寝息を立てているマネージャーを横目に、右に左に何度も寝返りを打ちましたが、かえって目が冴えてしまいました。
仕方がないのでトイレに立って再び横になりましたが、やはり眠れず、二時間ほど経って少しウトウトしたところで、妙な気配に目を覚ましました。
蚊帳が揺れているのです。
縁側から風が入ってくるのかなとも思いましたが、トイレに立って手水鉢(ちょうずばち)を使ったとき、ガラス戸はしっかり閉めたはずです。
風もないのになぜ蚊帳が?と目を凝らした瞬間、背中に水をかけられたような冷たさを感じました。
スッスッという畳を擦る足音とともに、白い着物を着た男の影が、蚊帳の外を足元からこちらへと向かって来るのです。
白い着物の男は音も立てず、蚊帳越しに枕元へ座りました。のり子は驚きと恐怖で体がすくんでしまい、動くこともままなりません。
蚊帳の外からスーッと伸びた手が、蚊帳ごとのり子の首にまとわりつきます。氷のように冷たい手の感触を感じたとたん、男はグッと首を絞めはじめました。
「殺される!」そう思いましたが、叫ぼうにも声は出ず、逃げたくても石のように固まった体は指一本動かせません。
その間にも首を絞める力はどんどん増していきます。のり子は深い闇へ落ちるように気を失いました。
驚愕の名前
「のりちゃん、のりちゃん」
マネージャーの声で我に返ったのり子は彼女に抱きつき、泣きながら、たった今起こった出来事を語りましたが、マネージャーは「ひどくうなされていたから、悪い夢でも見たのよ」と言って取り合ってくれません。
念のためガラス戸も見てもらいましたが、しっかりと閉められていました。白い蚊帳は何事もなかったように吊られています。ただ首に残った冷たい手の感触だけは、いつまでも消えませんでした。
あくる朝、朝食のお膳を下げに来た女中にサインのことを聞かれ、あわててサイン帳を棚から取り出し、パッと開いたそのページを見た瞬間、のり子は驚愕のあまり言葉を失いました。
そこには「田口省吾」という名前が書かれていました。
田口省吾
淡谷のり子は音楽学校の学生時代、家計を助けるために画家のモデルのアルバイトをしていました。美術学校や研究所の仕事をかけもちするのり子に、専属モデルになって欲しいと懇願してきた画家が田口省吾でした。
田口は裕福な家の出で、のり子が苦学生だと知ると学費や妹の目の治療費の援助をしてくれました。
ある日、田口はのり子に結婚を申し込みます。「二人でフランスに行き、のり子は好きな音楽の勉強をすればいい。手はずは整えたから、すぐにでも結婚しよう」というのです。
物質的にも精神的にも励ましてくれる田口に、のり子はひとかたならぬ恩を感じていました。
正当な報酬以上の世話を受けていることも、田口の好意の裏にあるものにも、のり子はうすうす気づいていました。
でも結婚は考えられませんでした。10歳年上の田口に魅力を感じなかったことも事実ですが、何より許せなかったのは結婚の条件です。
田口は、のり子の身辺調査をし、没落した青森の実家や家柄、のり子の親兄弟から親族まで、ありとあらゆることを調べ上げていました。
そして彼は言うのです。
「貧乏モデルとの結婚では世間体が悪いので、一度自分の知り合いの家に養女に入り、それから田口の家へ嫁いで欲しい。」
これが結婚の条件でした。
この話を聞いたとたん、のり子の反骨心がふつふつと沸き上がってきました。
「心から私を妻に迎えたいと思うなら、世間体など関係ないはずだ。」
のり子は、二度と田口のアトリエを訪れることはありませんでした。
その後、田口省吾は別の女性と結婚し、1943年(昭和18年)46歳で亡くなりました。
宿の女将から聞いた話では、田口は写生旅行で何度も宇部市を訪れ、逗留していたということでした。特にのり子が泊まった部屋はお気に入りだったそうです。
のり子は、見覚えのある癖字で書かれた田口のサインをしばらく見つめ、田口の隣に「淡谷のり子」と書き添えました。せめてもの供養のつもりでした。
東京に戻ったのり子は、自宅に保管していた田口の絵を寺に納め、供養してもらいました。
その後、二度と幽霊を見ることはなかったそうです。
参考文献
淡谷のり子『酒・うた・男 : わが放浪の記』.潮文社
淡谷のり子『いのちのはてに』.学習研究社
この田口省吾さんの友人・前田寛治が描いた「淡谷のり子さんがモデルの裸婦画」が淡谷さんの家にありました。
前田氏が田口さんに「モデルとして淡谷のり子を貸してくれ」と頼み、田口氏も最初は快諾したが……
心配だったのか田口氏は、淡谷さんがモデルに行く日は必ず着いてきたといいます。
無事、絵は帝展に出展され、後に淡谷さんのもとにやってきました。
が、その絵が淡谷さんの家に置かれてから、不思議なことが起きるようになります。
で、TV局が80年代に淡谷さんの家の怪奇現象として取材すると、霊能者が「絵に執念が憑いている」と。
淡谷さんは、絵を描いた前田さんではなく、田口さんだろうと言うと、霊能者は「そうだ」。
その絵は、淡谷さんと縁のある寺に引き取られ、今は行方知れずだそうです。