愛助の母・村山トミから「歌手をやめるのが結婚の条件」と言われたスズ子。
スズ子のモデル・笠置シヅ子(当時は笠置シズ子)も芸能界から引退し、家庭に入る決断をしています。
シヅ子に歌手廃業を決意させたものとは何だったのでしょうか?
史実を元に解説します。
歌手をやめて欲しいと言い出したのは、恋人・吉本頴右(えいすけ)
昭和21年、吉本穎右は大学を中退し、重役見習いとして吉本興行東京支社で働くようになります。
当時、二人は交際を公言しておらず、穎右が大学をやめて仕事についたのは、一人前の社会人になっていなければ、母親や親族に結婚の話を切り出せないと考えたからだろうとシヅ子は推測しています。
シヅ子が結婚をせがんだことはなく、逆に穎右は何度も舞台をやめてくれと催促していました。シヅ子は、この催促も結婚の意思の表れだと自伝で次のように述べています。
“結婚の意思なくして、どうして歌手生活20年の私を舞台から引きずり下ろして、家庭に閉じ込める気持ちになれるでしょう。私も、そうすることがエイスケさんを幸福にする道ならば、断ち切りがたいキズナも切って仕事を放擲(ほうてき)しようと思いました。” 『歌う自画像 ブギウギ伝記』
シヅ子に舞台への未練がなかったわけではありません。しかし、エノケンこと榎本健一が「生一本の人」と評したように、シヅ子はこうと決めたらまっすぐ突き進む人でした。穎右と結婚するために、その時が来たら、潔く引退する決心を固めつつあったのでした。
そして、“その時”は意外に早く、予期せぬ形でやって来たのです。
穎右の帰郷とシヅ子の妊娠
穎右は懸命に仕事に励みましたが、徹夜が続いたり、深酒をしたりして、身体がどんどん弱り、結核の症状も出るようになっていました。
穎右の体を心配した母親・吉本せいの懇願によって帰阪することが決まり、昭和21年6月16日、シヅ子はマネージャーの山内とともに琵琶湖まで見送り、湖畔の旅館で1泊しました。
翌日、穎右と大津駅で別れ東京へ戻ったシヅ子は、7月は日劇『銀座千一夜』、8月は有楽座『エノケンのターザン』、9月には再び日劇でレビュー『スイング・ホテル』と多忙な日々を送っていました。
10月7日に『スイング・ホテル』の千秋楽を迎え、体調に異変を感じ産婦人科を受診したところ、妊娠が判明します。3ヶ月でした。
私生児にしたくない
産婦人科医は、芸能界の裏も表も知り尽くしている芸能人御用達の医師・桜井博士で、「生まれる子どものためにも早く籍の問題を解決したほうがいい」とシヅ子に助言しました。
未婚のまま出産すれば、子どもは非嫡出子いわゆる私生児になってしまいます。シヅ子は、それだけは避けたいと考えていました。
この頃、ふたりの交際はすでに吉本せいの知るところとなり、強く反対しているということもシヅ子は耳にしています。「母親が許してくれないなら、家出をしてでも一緒になる」と言う穎右をシヅ子が押しとどめたこともありました。
無理を通せば、吉本興業の御曹司としての穎右の立場を悪くすることになりかねません。慎重に事を運ぶべきだと言う山内の言葉に、とりあえず手紙で穎右に妊娠したことを伝え、運良く12月に関西での仕事が入り、神戸の八千代座でふたりは会う運びとなりました。
楽屋を訪れた穎右は少し面やつれしたようでしたが、父親になることを喜び、子どもの話をすると感慨深そうな表情を見せてくれます。
穎右も子どもも母親のせいも、みんなが幸せになれる方法を選んで欲しいと頼むシヅ子に、穎右も慌てずに頃合いを見計らって、条件が揃ったところで解決への手はずを整えると約束してくれました。
楽屋を出て穎右とふたりで話こんでいた山内によると、「今、吉本家は財産整理に忙殺されており、来年の3月に整理が終わった時点で、穎右はシヅ子の話を持ち出そうと考えている」ということでした。さらに
“子供が生まれたら直ちに自分が認知して入籍の手続きをとる。それと同時に笠置も入籍できるかどうかはわからない。これは急がずに笠置に対する認識と愛情が親族間に高まって、笠置が吉本家に入ってきても日本晴れでいられるようになってから実行したい” 『歌う自画像 ブギウギ伝記』
と穎右は語り、円満な解決へ向けて自分も努力すると言ってくれたそうです。
必ず子どもを認知するという言葉に、強く勇気づけられたシヅ子でした。
舞台『ジャズ・カルメン』を最後に引退を決意したシヅ子
次の公演『ジャズ・カルメン』の稽古が始まろうとしています。
安定期に入っているとは言え舞台での動きは激しく、穎右は身重の体を心配し出演に反対しましたが、芸能界を知り尽くした医師・桜井先生の「身体のことは私が全責任を持つ」という鶴の一声でシヅ子の出演が決まりました。
昭和22年1月29日、舞台の幕が上がります。
その頃にはお腹も大きくなっており、シヅ子の妊娠を疑う記事が出回るようになっていました。
ショールとスカートでお腹を目立たなくしたシヅ子は、ジャズ風の『ハバネラ』や『闘牛士の歌』をパワフルに歌いました。
急な階段を降りるシーンでは何度も足を踏み外しそうになり、舞台の袖で見守る桜井先生や山内マネージャーをひやひやさせ、千秋楽を迎えた時には、一同安堵のため息をついたほどです。
この公演を最後にシヅ子は、引退することを決意していました。無事に舞台をやり遂げたシヅ子に、後悔は一切ありませんでした。
参考文献
青山誠『笠置シヅ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記』
笠置シヅ子『歌う自画像 ブギウギ伝記』
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