笠置シヅ子は、恋人・吉本穎右(えいすけ)に先立たれ、奇しくも実母と同じ私生児の母となりました。
子どもの入籍にこだわっていたシヅ子が、吉本せいの引き取ってもいいという申し出を固辞し、シングルマザーとなる決心をした理由とは何だったのでしょうか?
出産の翌年、昭和23年に出版された自伝『歌う自画像 私のブギウギ傳記』をもとに当時のシヅ子の心境に迫ってみたいと思います。
家族で暮らすための家を借り、穎右の帰りを待つシヅ子
昭和22年1月『ジャズ・カルメン』の上演中に上京すると言っていた穎右は、2月になっても3月になっても姿を見せませんでした。
その間、シヅ子は借金をして、世田谷の松陰神社近くの一軒家を手に入れています。
「再び実家に戻るにしても、出産まではこの家でくつろいでもらいたい」そんなことを考えながら、床の間に穎右の好きな蕪村の掛け軸を飾り、せっせと部屋を設えて穎右の帰りを待っていたのでした。
しかし、待てど暮らせど穎右は現れず、二人をつなぐ唯一の手段である手紙も途絶えるようになってきました。
上京できる状態ではなかった穎右
4月になり、シヅ子のもとに、大阪吉本の営業部長・前田米一から一通の手紙が届きます。前田部長は大学卒業後、穎右の家庭教師をしていた人物で、二人は気心の知れた間柄でした。
手紙によると、穎右は財産整理で忙しく、徹夜が続いたせいで風邪をこじらせ床に臥せっているということでした。
実はこの時、穎右は持病の結核が悪化し、病状もかなり深刻な状態に陥っていたのですが、身重のシヅ子を気遣い、詳しい病状を知らせなかったのです。
その後、5月3日の「いよいよ動けなくなった。大阪医大へ入院させる」という報せに続き、5月18日には「今が生死の分かれ目だ」という最終通告が届きます。
昭和22年5月19日、奔馬性急性肺炎のため吉本穎右は帰らぬ人となりました。享年24でした。
シヅ子のことを母親に何も言わずに逝った穎右
5月20日、シヅ子は入院していた産院の一室で山内マネージャーから穎右の死を知らされ、23日には大阪から上京した前田部長から穎右の最期を聞いています。
穎右は大阪医大へ入院する間もなく、兵庫県西宮市の吉本邸で息を引き取りました。
死期を悟ってのことでしょうか、亡くなる2・3日前「シヅ子に渡してほしい」と、印鑑と預金通帳を前田部長に託していました。
預金通帳の名義は吉本静男。穎右はかつて、男の子は母親に、女の子は父親に似ると幸せになると聞いたことがあったそうです。男の子だったら「静男」、女の子だったら「エイ子」と名付けて欲しい。それが穎右の遺言でした。
「笠置はんのことは本家(吉本せいのこと)にはなにも言やはらしまへんでした。なんせ、几帳面なお人やよって、親の許さぬ恋として、喉元までせきくる言葉を押し戻しはったんだっせ。本家もそれと察して、なんか、もう言い残すことあらへんのか、と何度も何度も声を強めはりました。ぼんは静かに眼をつぶってはったが、その何度目かに薄目を開けられて、たったひとこと、ほかのことはみな前田にまかしてあるよって、よろしうお願いします……」(引用:『歌う自画像 私のブギウギ傳記』)
前田部長の語る穎右の最期を聞きながらシヅ子は慟哭し、わが子の顔をひと目見ることなく逝った彼の無念を思い、養母に続きまたもや最愛の人の死に目に会えなかった己の運命を呪いました。
通帳に記された3万円は、穎右がわが子のためにと給料から貯めたお金でした。
吉本せいと初の対面
昭和22年6月1日、シヅ子は無事に女児を出産し、穎右の遺言に従いエイ子と名付けました。
同年9月、シヅ子は娘を連れて、吉本せいのもとを訪れています。
「エイスケが、えろうお世話になりまして……」
とせいは頭を下げました。そして、手ずから孫のエイ子をお風呂に入れ、自分で縫ったという新しい着物を着せてくれました。孫のためにわざわざベビーパウダーまで買い求める念の入れようでした。
吉本せいは、跡取りの穎右を溺愛して育てたといいます。それだけに、孫の存在は大きかったのでしょう。
「エイスケがこの世に残して行ったいちばん大きな置き土産だすよって、大事にしてやっとくなはれ」(引用:『歌う自画像 私のブギウギ傳記』)
という言葉をシヅ子に掛けています。
そして、「この子のために、みなで、あんじょうしましょう」というせいの一言に、シヅ子は、自分はどうなっても、穎右の血を分けたこの子だけは、私生児にしたくないという思いを強くしました。
私生児として育てる決心をしたシヅ子
初めての対面の際、吉本せいは、子どもを抱えて舞台に立つのは大変だろうから、自分が預かってもいいとシヅ子に告げています。
シヅ子が山内マネージャーと前田部長に依頼し、子どもの吉本家への入籍について調べてもらったところ、認知すべき父親が亡くなっている場合、入籍は難しいことが分かりました。
裁判で何とかなるかもしれないという意見もありましたが、ことを大きくするとマスコミが騒ぎ、個人的な秘事を世間の目にさらす危険があることや、歌手としてカムバックする話題作りととられるのも耐え難いことから、シヅ子は娘の吉本家への入籍を断念したのでした。
せいだけでなく、出産直後、シヅ子は東京吉本の社長・林弘高からも養子の話を持ちかけられています。林弘高は吉本せいの実弟で穎右の叔父にあたります。
自分がエイ子を引き取ってもいいという林の言葉に、シヅ子はスヤスヤと眠るわが子の寝顔を見ると、とても手放す気にはなれず、
“私は自分で頑張れるところまで頑張ってみます。それが吉本家のお許しを得ずして、この子を生んだ私の当然の勤めです。” (引用:『歌う自画像 私のブギウギ傳記』)
と返しています。
彼女にとって穎右の忘れ形見であるわが子と離れるのは、身を引き裂かれるような辛さだったのでしょう。すでに身二つになった時から、自分の手で育てようと気持ちは固まっていたのでした。
奇しくも実母と同じ父なし子の母となった笠置シヅ子。
「女手一つで育てる自信がなく、自分を捨てた実の母のようにはなりたくない」心のどこかにあったそんな気持ちも、シヅ子の決心の一端を担っていたのかもしれません。
参考文献:笠置シズ子著『歌う自画像 私のブギウギ傳記』.北斗出版
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