初代・神武天皇の即位から第126代の今上陛下(現在の天皇陛下)まで2681年の永きにわたって日本国と日本人を見守り、その幸せを祈り続けて来られた皇室。
日本人にとって誠に尊い存在であることは言うまでもありませんが、史料を紐解くと歴代天皇陛下の中には、人格に難のある方も残念ながらいらしたようです。
その代表格としてよく槍玉に上げられるのは第25代・武烈天皇(ぶれつてんのう)。奈良時代に編纂された歴史書『日本書紀(にほんしょき)』には
「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず(意訳:様々な悪事をしばしば行い、何一つとして善いことはなさらなかった)」
とまで書かれる始末。一体どんな悪事を働いたのでしょうか?また、それは事実なのでしょうか?
今回はそれを調べ、紹介したいと思います。
10歳で即位、18歳で崩御されるまで悪行三昧?
武烈天皇が生まれたのは第24代・仁賢天皇2年(西暦489年)、その諱(いみな。本名)は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと。『古事記』では小長谷若雀命)と言いました。
※この時代はまだ元号が使われていないため、天皇陛下の諡号(崩御の後に贈られる称号)を代わりに用いています。
皇位を継承したのは父である仁賢天皇が崩御された仁賢天皇11年(498年)、10歳で即位した武烈天皇は翌年に春日郎女(かすがのいらつめ。生没年不詳、出自は和珥氏か)を皇后に立てて政務に臨みました。
(※古代における年数の数え方には諸説ありますが、ここでは即位と同時に元号が変わったのではなく、年が明けた西暦499年を武烈天皇元年としています)
……が、8年間にわたる治政の中で、武烈天皇は悪行三昧に耽ったそうです。
武烈天皇2年(500年)9月……12歳
「生まれる前の胎児を見てみたい」からと妊婦を捕らえてその腹を切り裂き、胎児をえぐり出しました。
特に感想はなかったようで(具体的な記述はなく)、きっと大して面白くもなかったのでしょう。
【原文】孕婦の腹を割きて其の胎を観す
武烈天皇3年(501年)10月……13歳
人の爪を剥がして、芋堀をさせたと言います。
爪を剥がされるだけでも耐えがたい激痛なのに、その指先で芋掘りをさせると言うのは、それが痛いと解っていてのこと。なぜそんなことをさせたのか、理由も併記しておいてほしいところです。
【原文】人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう
武烈天皇4年(502年)4月……14歳
何を思ったか髪の毛を引き抜いた者を高い木に登らせておき、その木を根元から切り倒して転落死させ、それを面白がったそうです。
殺すならさっさと殺せばいいのにと思いますが、きっと恐怖と苦痛、併せて(髪の毛を引き抜かれた)辱しめを与えたい動機があったのでしょう。
もしかしたら、あっさり死なずに瀕死の重傷を負わせて、息絶えるまでジワジワと苦しめたかったのかも知れませんね。
【原文】人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ
武烈天皇5年(503年)6月……15歳
大きな水樋を作ってそこに人を流し、流れ出たところを三刃の矛で刺し殺して楽しんだと言います。
あえて現代に喩えるなら、流しそうめん的なゲーム感覚だったのかも知れません。日本史上、刃が三つ股に分かれた武器は珍しいですが、もしかしたら大陸からの舶来品かも知れません。
よい刀を手に入れると、さっそく試し斬りがしたくなるようなものでしょうか。
【原文】人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ
武烈天皇7年(505年)2月……17歳
人を木に登らせ、その者を射落として笑ったそうです。何だか、これまでの殺し方に比べるとシンプルで、アイディアが出なかったのでしょうか。
【原文】人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲(わら)いたまふ
武烈天皇8年(506年)3月……18歳
女性を裸にして縛りつけ、馬と交尾させてから女性器を確認。濡れている者は殺し、濡れていない者は自分の奴隷として楽しんだと言います。
何と言うか、エロ本にありそうな話ですが、さんざん人の尊厳を踏みにじった挙げ句、なまじ殺さない分だけ陰惨さが引き立っている印象です。
【原文】女をひたはだか(只裸)にして、平板の上に坐ゑ(据え)、馬を牽きて前に就して遊牝(あそば)せしむ。女の不浄を観るときに、湿(しめら)へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ
……以上の悪行を尽くした挙げ句、武烈天皇8年12月に崩御されました。きっと周囲の者はホッとしたことでしょうが、これらのエピソードには、少なからず疑問が残ります。
悪行三昧の不自然な点
武烈天皇の悪行を聞いた時、以下のような疑問がないでしょうか。
1.悪行のペース、バリエーション
2.周囲の反応
3.『古事記』の記述
1つずつ見ていきましょう。
『日本書紀』によれば、武烈天皇はその在位中「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」というありさまだったようですが、諸悪という割にはバリエーションが乏しく、またペースもおよそ年に1回と遅いようです。
もちろん一生涯に1度でもあれば大惨事なエピソードとは言え、どれも思いついてその日の内に出来てしまいそうな簡単なものばかり。それ以外の時期は、いったい何をしていたのでしょうか。
次に、悪行に手を染めていた武烈天皇は、いくら畏れ多いとは言ってもまだ10代の少年。これらの悪事を思いつき、口にしただけでも周囲の大人が全力で止めるのが普通ではないでしょうか。
「あー、妊婦の腹を掻っ捌いて、中の赤ん坊を見てみたいなー。よし、誰か連れて来て!」
こう言われて「ははあ。では早速」などと言う者がいたら、間違いなくそいつも同罪です。非行の芽は、みんな一丸となって摘み取らねばなりません。
何より、日本最古の歴史書である『古事記(こじき)』にはこれらの記録がありません。これほどのことをしでかした人物、それもやんごとなき身分の方ともなれば、忖度したことを差し引いても全く記述がないのは不自然ではないでしょうか。
逆に、完全に忖度したというのであれば『日本書紀』でも書かなければいいはずですが、それでもあえて書いたということは、事実だから書いたというよりも積極的に書いた(≒創作した?)とも考えられます。
(もちろん『古事記』が黙殺した歴史の真実を『日本書紀』が暴露した可能性も全くないとは言えません)
後世の者に都合よく「創られた」?暴君像
『古事記』に書かれなかった武烈天皇の悪行を『日本書紀』が積極的に書いた(≒創作した?)動機として考えられるのは、武烈天皇の次代・継体天皇の正当性(の強調)です。
武烈天皇は子供がいないまま崩御されたため、身近に皇位継承者がいなくなってしまい、遠縁の男大迹王(をほどのおおきみ。継体天皇)を招き、武烈天皇の姉である手白香皇女(たしらかのひめみこ)と結婚したことで皇位継承資格を認められます。
日本の国体(こくたい。国のあり方、本質)を継承したことで「継体」天皇と諡(贈り名)されたのですが、当時は「あまりにも遠縁すぎだろ」という批判が多く、その正当性を主張するため、武烈天皇の暴虐性を強調(創作?)したようです。
「暴虐非道なため天意に背き、子孫が絶えた武烈天皇に代わって、継体天皇が皇統を継承した」
古来「死人に口なし」という通り、死に絶えた家系や滅び去った者については、後に続く者たちに都合よくストーリーを作られてしまいがち。武烈天皇も、そんな被害者の一人だったのかも知れませんね。
※参考文献:
井上光貞『日本の歴史〈1〉神話から歴史へ (中公文庫)』中公新書、2005年6月
坂本太郎ら監修『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館、1990年11月
白石太一郎『古代国家はいかに形成されたか 古墳とヤマト政権 (文春新書 (036))』文春新書、1999年4月
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