戦国時代

上杉景虎について調べてみた

上杉謙信ではなく、長尾景虎でもない

上杉景虎という武将の話である。

長尾景虎との混同を避けるべく、時に「北条三郎景虎」とも呼ばれる。
この謎の多い人物について調べてみた。

北条としての三郎

北条氏の全盛期を治めた3代目当主・北条氏康の七男として1554年、小田原に生まれる。幼名は三郎
家督を継ぐ可能性のなかった三郎は、幼少期に箱根早雲寺(はこねそううんじ)に預けられて僧として過ごしたらしい。

上杉景虎
※早雲寺本堂(神奈川県箱根町)

戦国期には相模(神奈川)の北条氏、甲斐(山梨)の武田氏、駿河(静岡)の今川氏の同盟が成立していた。それにより、武田・北条の間でも甲相同盟の締結により、両家の婚姻が行われるなどの関係を保っていた。

このときに三郎も甲相同盟の一環として武田氏に人質として送られたという。

当時の三郎は15歳であったが、この時代では元服(成人)を迎えており、人質としての役目を努められると思われたのだろう。
なにしろ、この男のことについては資料が少ないため、確証はないがそれが定説となっている。
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北条との決別

この時代、北条氏上杉氏は長らく犬猿の仲であった。

しかし1569年、武田氏北条氏・今川氏との同盟を破り、駿河に侵攻する。これによりパワーバランスが崩れることを悟った北条氏は、武田氏との同盟も手切れとし、越後の上杉氏に助けを求めた。
一時は北条へ戻ることが出来た三郎であったが、再び彼が動かねばならない事態がやってくる。

北条氏と上杉氏で締結された越相同盟により、双方から相手国へ人質を出さなくてはならなくなったのだ。
戦国期では同盟の証に大名の肉親を相手に「婚姻」や「養子」といった形で人質に出すことは当たり前だった。


※上杉謙信

1570年、上杉氏への人質として三郎は再び相模国を離れることになる。16歳のことであった。その際に三郎は謙信への養子入りが決まり、謙信の姪を三郎に娶らせることが約束される。

上杉氏は越後だけなく、関東にも強い影響力を持っていたので、この同盟が成功すれば、北条氏にとって背後の安全は確保されることになった。

上杉謙信の養子

1570年4月25日、越後の春日山城にて謙信の姪との祝言が行われた。さらに謙信は三郎を自身の養子として迎えたのである。しかも、幼名の景虎の名も与えると共に一族衆として厚遇したという。
その証に春日山城の三の丸に屋敷も与えている。これは当時としては大変異例なことだ。

もしかしたら、謙信は若き三郎の瞳の中に、自分と同じ力を感じたのかもしれない。

上杉景虎の誕生である。

しかし、北条氏では内部で越相同盟の維持か甲相同盟の回復かで路線対立があったという。武田氏も上杉との和睦を行ったためだ。こうなると上杉も最終的にどちらの陣営に付くかわからなかった。

そのような状況の中、1571年に北条氏康(景虎の実父)が死去すると実権を握った息子の北条氏政は、上杉・北条の同盟を破棄する。しかも、再び武田との同盟を締結してしまう。氏康の死に際して景虎は一的に小田原へ帰参しているが、間もなく越後へと戻っている。


※北条氏康

本来であれば上杉との同盟が切れたため、人質としての景虎の役目は終わって北条に戻るのだが、景虎は越後で生きると決めたようだ。

また、上杉としても景虎が謙信の正式な養子となっていたため、戻られては困る事情もあったのだろう。

家督争い

1578年3月13日、謙信が病没すると義兄弟の上杉景勝との家督を巡る争いが勃発する。後に米沢藩初代藩主となる景勝は、景虎と同じく謙信の養子であった。謙信の姉、仙桃院の息子であり謙信の甥に当たる。

血筋では景勝が有利であったが、謙信は景虎に家督を譲るつもりであったともいい、それが原因だったともいわれる。


※上杉景勝

その家督争いが内乱に発展したものが「御館の乱(おたてのらん)」である。

御館とは春日山城下に設けられた館のことで、つまりは春日山城での戦いのことだ。ここで景勝は素早く春日山城の本丸に移動、景虎も三の丸に立てこもり戦が始まった。

景虎側は関東の上杉一門衆を筆頭に、血族の北条氏やその同盟者である武田氏など、内外から支援を受けた。
一方、景勝軍は大河ドラマ「天地人」でも描かれた直江景綱の婿・直江信綱など、長尾家古参の側近や旗本、重臣らが集まる。


※御館

両軍の構成が見えてきた5月13日、景虎は三の丸から御館へ移ると北条に救援を要請した。これにより諸国をも巻き込んだ戦いへと発展したのだが、最終的には御館は景勝軍により放火され落城。景虎は脱出したものの逃亡中に攻められて自害することとなった。

こうして御館の乱は終息し、景勝が上杉家の家督を継ぐこととなる。

上杉景虎の謎

戦国時代において北条・武田・上杉と強国に身を置き、最後は上杉謙信の後継者とも目された上杉景虎

これほどの人物ながらその資料はあまりに少ない。

北条氏の地元である現在の小田原においても、その存在すら知らない人が多いくらいだ。本当に謎の多い人物である。

幼少時に離れてしまった北条方に資料が少ないのは理解できるとしても、上杉方にもその資料が少ないのは、家督争いの後に景勝方が処分したとも考えられる。また、直江ら古参の家臣たちが上杉に北条の血を入れるように工作した可能性もある。


※春日山城

景勝を祭り上げ、謙信が後継者を指名していないことを理由に戦いを始めたのかもしれない。

いずれにせよ、上杉謙信の遺志が分からぬ以上は謎のままである。

最後に

この乱により景勝はライバルを排除したが、大規模な内乱に発展したために上杉家の軍事力は衰退した。周辺諸国とのパワーバランスも一変し、越後での主従の関係もあちこちで雲行きが怪しくなったと言う。

さらに関ヶ原の戦いの後には景勝は米沢へ領地を変えることとなり、上杉家も東北の一大名へと没落した。

歴史にもしもは禁句だが、もし上杉景虎が越後の主となっていたら歴史は大きく変わっていたかもしれない。

 


上杉景虎―謙信後継を狙った反主流派の盟主

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