
画像:独Die Gartenlaube誌(1874)抜粋 public domain
現代ではウサギ肉は、地中海沿岸諸国やフランス、ベルギーなどで高級食材として珍重され、さまざまな料理法で楽しまれています。
しかし、ウサギが食卓にのぼるまでの歴史は、味や栄養だけでは語れません。
中世ヨーロッパでは、宗教上の戒律や身分制度、農業の発展、さらには動物の分類をめぐる混乱までが絡み合い、ウサギの食文化は驚くほど複雑な歩みをたどることになったのです。
今回は、古代ローマから中世、そしてルネサンス期に至るまでのヨーロッパにおけるウサギ食文化の流れ、そしてなぜウサギがある時代には食用とされ、また別の時代には禁忌とされたのか、その理由に触れていきます。
古代ローマにおけるウサギと食の関係

画像:大プリニウス public domain
ヨーロッパでウサギが食材として登場する最初の記録は、古代ローマまでさかのぼります。
博物学者プリニウスは大著『博物誌』の中で、若いウサギ、特に胎児や離乳直後のものを「ラウリケス(laurices)」と呼び、珍味として扱われていたと記しています。
これは主に上流階級の間で楽しまれていた食文化の一環であり、一般の庶民にはなかなか手の届かない嗜好品でした。
ローマ人はウサギを囲い地に集めて、半ば自然のまま飼う方法をすでに試していました。
まだ本格的な家畜化とはいえませんが、人の手で管理する初期の試みだったとされています。
とくにイベリア半島では、その旺盛な繁殖力が注目され、経済的な価値も見出されていました
ただし、当時のウサギは現在の家畜ウサギとは異なり、野生種に近いものでした。
家畜化は中世や近世を通じて、徐々に進んでいったと考えられています。
キリスト教の世界観と断食規定

画像:トゥールの聖グレゴリウス(ジャン・マルセランによる19世紀の彫像、ルーヴル) wiki c Jastrow
中世に入ると、ヨーロッパの食文化はキリスト教の戒律に大きく規定されるようになりました。
特に四旬節や金曜日などの断食日には、肉食が禁じられ、魚や一部の水棲生物のみが許される慣行が広まりました。
この中でウサギは哺乳類であるため、断食期間中の摂取は原則として禁じられていたのです。
しかし、例外的な記録も残っています。
6世紀の歴史家グレゴリウス(トゥール司教)は『フランク人の歴史』の中で、ある人物が四旬節のさなかにウサギの胎児を食べたと記しています。
ただしこの話は批判的な文脈で紹介されており、当時の教会が正式に認めていたわけではありません。
しかし、こうした逸話はやがて誇張され、「教会がウサギを魚と認めた」という俗説が広まっていきました。
その中でも有名なのが「教皇グレゴリウス1世がウサギの胎児を魚とみなした」という説ですが、これは前述したグレゴリウスとの混同から生まれたもので、現存する教令や史料にはそのような認定は一切見られません。
つまり、断食中のウサギ食については、教会として統一された決まりがあったわけではなく、地域ごとの慣習や修道院の解釈、あるいは個人の判断に委ねられていた可能性が高いのです。
中世社会におけるウサギの家畜化と管理体制

画像:独パーダーボルン大聖堂の回廊内庭にある「三羽の野ウサギの窓」 wiki c Zefram public domain
中世になるとウサギの飼い方も少しずつ変わり、とくに12世紀以降は、封建領主の荘園で本格的に管理されるようになります。
そこで登場したのが「ワレン(warren)」と呼ばれる専用区画で、ウサギを飼い、狩り、増やすことまで計画的に行われるようになりました。
こうした仕組みが整えられた背景には、ウサギの肉や毛皮に対する需要の高まりがありました。
都市の成長とともに市場も広がり、食材としての肉や衣料用の皮が広く流通するようになったのです。
また、飼育下での繁殖によって野生性が徐々に薄れ、現代に近い家畜種への変化が進んだとされています。
同時に、ウサギは領主の支配力を示す象徴でもありました。中世の後期には、庶民が無断で捕えることが禁じられ、処罰の対象となった例もあります。
ウサギはすでに「ただの動物」ではなく、領地の収益を生む資源として扱われていたのです。
ウサギにまつわる神話と、ルネサンス以降の再評価

画像:ティッツァーノ画『ウサギの聖母』(1530年) public domain
中世の終わりからルネサンスにかけて、自然科学や分類学が発展し、動物の生態や体のしくみに対する理解も深まっていきました。
それにあわせて、ウサギに関する迷信や誤解も少しずつ解かれていきます。
とくに「ウサギの胎児を魚に分類する」といった説は、近世の博物学の中で否定されました。
とはいえ、一度広まった話は簡単には消えません。
19世紀以降の文献にも「教会がウサギを魚と認めた」と書かれることがあり、学術的には否定されているにもかかわらず、一般の通念として長く残り続けました。
一方で、ルネサンス以降の食文化においてウサギは再評価され、とくにフランス料理の発展とともに、繊細な味わいをもつ高級食材としての地位を固めました。
この時代には家畜化もほぼ完成し、ウサギはもはや特権階級だけのものではなく、市場で広く取引される身近な食品になっていきました。
このように、ウサギの食文化は宗教の戒律や身分制度、動物観、そして自然との関わり方など、さまざまな要素が絡み合って形づくられてきました。
現代においてウサギ肉は再び高い評価を受けていますが、その背景には長い歴史の積み重ねがあったのです。
参考資料:
「中世の食生活」/ブリジット・アン ヘニッシュ
「プリニウスの博物誌〈縮刷版〉2」/中野定雄, 中野里美, 中野美代訳
The distribution of rabbit warrens in medieval England:an east–west divide?/David Gould
文 / 草の実堂編集部
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