離婚歴のあるアメリカ人を妻にしたイギリスの王族と言えば、2018年5月19日にメーガン・マークルと結婚したヘンリー王子を思い浮かべる人が多いだろう。
だが、イギリス王室には、離婚歴のあるアメリカ人を愛した結果、王位を捨てた人物が存在する。現女王エリザベス2世の伯父エドワード8世がその人だ。
この記事では、日本でも「王冠を捨てた恋」として知られるエドワード8世について取り上げる。
ノーブレス・オブリージュの体現者
後にエドワード8世となる王子エドワードは、1894年6月23日に、ヨーク公ジョージとメアリー・オブ・テックの長男として誕生した。
エドワードの祖父は当時のイギリス国王エドワード7世であり、曾祖母はヴィクトリア女王である。
エドワード7世が亡くなり、父であるヨーク公ジョージがジョージ5世として即位すると、エドワードは次期国王であるプリンス・オブ・ウェールズに叙せられた。
1911年にウェールズのカーナヴォン城で行われた叙位式では、英語ではなくウェールズ語でスピーチを述べ、彼以降、プリンス・オブ・ウェールズはウェールズ語でスピーチを行うことが慣例となった。
1907年から1911年にかけて、エドワードは海軍学校で学んでいたが、学校生活に馴染めなかったことや同級生のいじめを受け、海軍士官には向いていないと自覚した。だが、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、彼は陸軍に入隊し、最前線への派遣を希望する。
その要望は聞き入れられなかったものの、エドワードは第一次世界大戦中、イギリス遠征軍司令部に勤務し、最前線への慰問を頻繁に行い、1918年にはパイロットのライセンスを取得した。危険を顧みず、身分の高い人間が果たす義務「ノーブレス・オブリージュ」を体現したエドワードは、兵士の人気と士気を高めることとなった。
気さくでお洒落なイケメンプレイボーイ
ロンドンの高級レストランへの入店を断られたオーストラリア兵士を自分のテーブルに招いて共に食事を取り、タバコを吸っている写真を新聞社に撮らせるなどのエピソードから、エドワードは「君主制度のPRマン」として人気が高かった。1922年には来日して裕仁親王(後の昭和天皇)とゴルフで対戦している。
皇太子エドワードは多趣味で、ファッションセンスも優れていた。ネクタイには「ウィンザー・ノット」という結び方があるが、この名前は彼に由来している。
また、エドワードはプレイボーイとしても名高く、愛人の1人であるテルマ・ファーネスが出した暴露本はベストセラーとなり、歌手のフローレンス・ミルズはエドワードとの関係を「あなたにあげられるもの、それは愛だけ」と歌って人気を集めた。
ジョージ5世は息子の「人妻好き」という性癖を軽蔑し、不安にも感じていたが、国民の多数は皇太子の女遊びには寛容であった。
シンプソン夫人との出会い
1931年に、皇太子エドワードは愛人のテルマ・ファーネスからウォリス・シンプソンを紹介される。
ウォリス・シンプソンは1896年6月19日生まれのアメリカ人で、ウィンフィールド・スペンサー・ジュニアとの離婚後、アーネスト・シンプソンと再婚した。
イギリス人の父とアメリカ人の母を持つアーネスト・シンプソンは、海運会社を経営しており、ロンドンにも支店を構えていた。夫の仕事を手伝ううちに、ウォリス・シンプソンはイギリスの社交界との繋がりを持つようになった。
皇太子エドワードとウォリス・シンプソンの関係は、従来のような遊びではなかった。彼はウォリス・シンプソンとの結婚を本気で考えたが、ウォリス・シンプソンは人妻であり、DVと浮気が原因で離婚した前夫ウィンフィールド・スペンサー・ジュニアも存命であった。
皇太子エドワードとウォリス・シンプソンの結婚は、イギリス王室や内閣だけではなく、国民にも反対されたが、その原因は、ウォリス・シンプソンがアメリカ人だったからではなく、皇太子というエドワードの地位にあった。
イギリス国王になれば、彼は同時にイングランド国教会のトップに立つことになるが、当時のイングランド国教会では離婚が禁止されていた。
つまり皇太子エドワードが離婚歴のあるウォリス・シンプソンと結婚すれば、イングランド国教会の首長が教義に背くことになる。
イギリス国民の多くが二人の結婚に反対し、新聞はウォリス・シンプソンを「アメリカ人の売春婦」と呼んで攻撃した。
戴冠式を行わずに退位
1936年1月20日にジョージ5世は「自分の死後12ヶ月以内にエドワードは破滅する」という予言を残して死亡する。
これによって皇太子エドワードは、イギリス国王エドワード8世として即位した。
ウォリス・シンプソンは即位式の立会人を務めたが、イギリス政府や王室関係者はウォリス・シンプソンを「単なる王の友人」として扱った。これに対してエドワード8世は夏の私的な旅行にウォリス・シンプソンを伴い、ペアルックのセーターを着て公の場に登場するなどして、彼女との仲をアピールした。
ウォリス・シンプソンの夫であるアーネスト・シンプソンは2人の仲を黙認しており、彼自身も愛人を作っていた。当時、シンプソン夫妻は裁判によって離婚手続きを進めていたが、エドワード8世は当時のイギリス首相スタンリー・ボールドウィンが参加していたパーティーで、アーネスト・シンプソンに一日も早い離婚を迫った上に、暴行事件まで起こした。
1936年10月27日に、ウォリス・シンプソンの離婚は成立した。
エドワード8世がウォリス・シンプソンと関係が公になり、世間の問題になれば、内閣は総辞職を避けられず、総選挙では彼の王位だけではなく、イギリスの王制の是非までもが問われることになる。国王の秘書長を務めていたアレグザンダー・ハーディングは文書を送り、ウォリス・シンプソンとの関係を解消するようにエドワード8世に求めたが、国王の意思は固く、逆に秘書長を更迭してしまう。
1936年11月25日に、エドワード8世とイギリス首相スタンリー・ボールドウィンの会談が行われ、国王には3つの選択肢が与えられた。
①結婚を諦める。
②政府や民衆の反対を押し切って結婚する。
③結婚と引き換えに退位する。
スタンリー・ボールドウィンやイギリス政府は①を望んだが、エドワード8世が選んだのは③であった。
1936年12月10日に、エドワード8世の退位と王弟であるジョージの即位が発表された。11日にはBBCのラジオを通じてエドワード8世自の退位スピーチが行われた。スピーチの文面作成には、後のイギリス首相であり、ノーベル文学賞を受賞したウィンストン・チャーチルが携わったと言われている。
エドワード8世の国王在任期間は325日で、戴冠式が行われることもないまま玉座を去った。
「王冠を捨てた恋」の結末
王位を捨てたエドワードにはウインザー公の称号が与えられ、1937年6月3日にはフランスのトゥールでウォリス・シンプソンとの細やかな結婚式が行われた。イギリス王室や政府からの参加者はいなかった。
エドワードと実家の関係は決裂し、王太后となった母メアリーや、弟ジョージ6世の妻エリザベス王妃(病弱な夫の即位に反対していた)とは長く絶縁関係に陥った。このため、ウインザー公エドワードは1952年のジョージ6世の葬儀や、1953年のメアリー王太后の葬儀に、妻を伴わず1人で参列している。ウォリス・シンプソンがウインザー公夫人として初めて、そして公的にイギリス王室に招かれたのは、1967年に行われたメアリー王太后の生誕100周年式典のことであった。
ウインザー公夫妻の間に子はなく、2人はフランスで余生を過ごした。ウインザー公エドワードは1972年5月28日に、妻ウォリスは1986年4月24日に死亡した。2人の遺体はイギリスの王室墓地に埋葬されている。
この記事へのコメントはありません。