完成までに15年の歳月を費やしたアテネの「パルテノン神殿」。紀元前431年に完成したパルテノン神殿は、現在でも荘厳で美しい姿をアクロポリスの丘で見ることができる。
古代ローマやその後の地中海世界に大きな影響を及ぼしたパルテノン神殿は、古代ギリシア世界の最高傑作といえるだろう。建設されてから約2400年も経っているが、現在でもその優美な姿に多くの人がロマンを感じている。
今回はパルテノン神殿の歴史を振り返りながら、改めてその魅力を調べてみた。
目次
ギリシア建築の均整美と輝きを今に伝えるドーリア式の神殿
パルテノン神殿はギリシアの将軍ペリクレスの計画から建築が始まった。文献によれば彫刻家フェイディアス指導のもと、イクティノスとカリクラテスという2人の有名な建築家がこの巨大な神殿づくりの責任を負った。
パルテノン神殿は直径1.9m、高さ10.4mの46本にも及ぶ大理石の柱によって支えられている。ペロポネソス半島に移住したドーリア人の様式で造られたことからドーリア式(ドリス式)と呼ばれるのだが、この建築様式で造られた柱は、列柱は短く、ほとんど装飾が用いられていない。しかし、見る者に荘厳で力強い印象を与える。
加えて柱にはエンタシスという技法が施された。円柱を下から上にかけて徐々に細くし、柱の中央部分に膨らみを持たせる技法だ。これは下から見上げた時に真っ直ぐに見えるようになっている。
イオニア哲学や数学が発達していたギリシアならではの特徴で、見るものを完璧に整えたいという性格だったのかもしれない。
また現在は失われてその姿を見ることはできないが、フェイディアスが手掛けたアテナ像もパルテノン神殿をより一層際立たせるものとなった。
高さは26キュビト(約11.5m)にもなる巨大な彫像で、中心部分は木製、周囲はブロンズプレートや黄金プレートで包まれており、顔や手は象牙でできていたと考えられている。
驚いたことに金の重量は44タラント=1,100kgにもなった。 しかしそんな優美な彫像だったためか、298BCにアテネの僭主ラカレスは、軍隊に報酬を払うために彫像についていた金や黄金の宝石を持ち運んでしまった。また165BCには焼かれてしまったり、500年には東ローマ帝国によってコンスタンティノープルに持ち去られ、10世紀頃に破壊されてしまった。
現在ではローマ時代の模倣品だが、アクロポリス博物館に収蔵されている「アテナ・ヴァルヴァキオン」と呼ばれる高さ1mの縮小像を見ることができる。
加えて有名な話だが、黄金比に基づいてパルテノン神殿が設計されたという伝説がある。長年パルテノン神殿は黄金比をもとに設計されたと考えられていたが、実は黄金比ではないと最近の研究で判明している。たくさんあるパルテノン神殿のパーツはそれぞれ微妙に少しづつ大きさが違い、それが上手に組み合わさって見事に調和が保たれているのだ。
だが、やはり均等に見えるように綿密に造られたことには間違いなく、今から約2400年前の建造物が現代まで残っていることは、その建築技術に驚嘆させられる。
古パルテノンがあった!?
実はパルテノン神殿は完全な新築ではなく、この地には「古パルテノン」と呼ばれる神殿があった。古パルテノンはマラトンの戦い(490BC-488BC)の終わった直後に建設が始まったのだが、紀元前480年にアケメネス朝ペルシアがアテネを占拠し、アテネが壊滅させられた際に建設途中であった古パルテノンはアクロポリスとともに完全に破壊された。現在ではパルテノン神殿の基礎が古パルテノンの最上段の基礎であったことが判明ししている。
アテネは破壊されてしまったものの、アテネを含めたギリシアの各ポリスの連合軍は同年の9月にサラミスの海戦でアケメネス朝ペルシアを大敗させ、ギリシア側の勝利となった。その勝利を祝い、守護神の感謝を表明するため、高さ12メートルにも及ぶ黄金と象牙のアテナ像を彫刻家フィディアスに作成させた。その像を設置するために、アクロポリスの上にあった古パルテノンを再建したのがパルテノン神殿である。
パルテノン神殿の歴史と破壊
パルテノン神殿は海抜150mのアクロポリスの上に建てられた。アクロポリスは都市と民衆を守る拠点の役割を果たすと同時に守護神を祀る神殿なども建てられて信仰の対象の役割も果たしてた。
パルテノン神殿があるアクロポリスは市街地からは70mの高さにあり、アテネ市街を一望できる。当時のギリシア世界の最高峰の技術と美的感覚により造られたパルテノン神殿の建設は、ペルシア戦争(492BC-449BC)後の447BCから432BCの15年にも及んだ。
興味深いことに当時の支出明細の一部が残っている。その記録によるとアテネから16km離れたペンテリコン山から切り出した大理石をアクロポリスまで運ぶ輸送費に多額の経費がかかり、それにはデロス同盟の宝物が宛てがわれたことがわかっている。
紀元前4世紀に入ると、アテネはアレクサンドロス大王の支配下に入ることになる。ヘレニズム時代の王たちはパルテノン神殿を自らの王位を権威づける場として用いたため、破壊されるということはなかった。
しかし、4世紀後半に始まるゲルマン人大移動からパルテノン神殿は様々な戦争に巻き込まれることになる。アテネは267年にヘルリア族、396年には西ゴート族に包囲され、このいずれかの戦闘でパルテノン神殿は放火され木製の梁が焼け落ちるなど被害を受けたが、完全に修復されることはなかった。
パルテノン神殿がマリア聖堂へ
パルテノン神殿の役割が大きく変わっていくのは、キリスト今日がローマ帝国の国境となってからである。もはやギリシアの神々の祭祀は行われなくなり、6世紀にはギリシア正教会のマリア聖堂として用いられることになった。このマリア聖堂はコンスタンティノープル、エフェソス、テサロニケに次ぐ4番目に重要な巡礼地となったが、改築の際に内陣の壁は一部が破壊されて通路となり、東の門は壁で塞がれしまった。
パルテノン神殿がイスラム教のモスクへ
1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国によって占領されビザンツ帝国が滅ぼされると、1456年にはアテネ公国も滅ぼされてしまい、パルテノン神殿はイスラム教のモスクとして用いられることになった。ミナレットこそ増築されたが、それ以外の改築は行われなかった。長年キリスト教の巡礼地となってきたパルテノン神殿だが、オスマン帝国支配下にあるときは、神殿からコーランの読唱がアテネ中に響いていたと言われている。
パルテノン神殿が決定的に破壊されたのは、1687年に神聖同盟に加わっていたヴェネツィア共和国が、オスマン帝国領となっていたアテネを攻撃した時のことだった。オスマン帝国は、ヴェネツィア側がパルテノン神殿に敬意を払い攻撃しないだろうと期待して、パルテノン神殿を弾薬庫、また女性や子供の避難所としていたのだが、ヴェネツィア軍の砲弾がパルテノン神殿に命中し、大爆発を起こした。
この攻撃により、神殿の内部・屋根・柱などのほぼ全てが吹き飛び、大理石の破片は飛散した。神殿は3日間炎上したとも言われている。加えてパルテノン神殿に施されていた彫刻の被害は甚大で、略奪されてしまい、彫刻が飾られていた場所は1674年にジャック・カリーが描いた絵から推し量ることしかできなくなった。
なぜ大英博物館にパルテノン神殿の彫刻が!?
パルテノン神殿の被害をさらに深刻なものにしたのが、イギリスのオスマン帝国駐在大使・エルギン伯トマス・ブルースによる神殿からの彫刻類を引き剥がしである。彼は、神殿の東正面の大きな三角形のペディメント(破風)の彫刻などを神殿から彫刻類を引き剥がしてしまい、1816年にイギリス政府に3万5千ポンドで売却した。それが現在の大英博物館に展示され、「エルギン・マーブル」と呼ばれている。
まとめ
残念ながら、現在では1687年以前のパルテノン神殿を見ることはできない。しかし、できるだけその形に戻そうとギリシャ政府による補修工事が行われている。円柱や楣石の欠けた箇所を建築当時と同様、ペリコン山で切り出された大理石と、必要に応じて近代的な材料が混ぜ合わされたセメントで丁寧に埋めることが行われている。
ギリシアのアテナを祀る神殿と建設され、後にはキリスト教のマリア聖堂、イスラム教のモスクとしても用いられたパルテノン神殿。最高峰のギリシアの技術と知恵が結集され、複雑で深い歴史を持つパルテノン神殿は多くの人を惹きつけるものとなっている。
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