西洋史

ルブラン夫人 ~18世紀に最も成功したマリーアントワネットの宮廷画家

ルブラン夫人

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(1781年)

ルブラン夫人 (1755年~1842年)は、フランスの画家。

本名はエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン

パリに生まれ、王妃マリー・アントワネットの肖像画を多く描いたことで知られる、18世紀のもっとも有名な女性画家である。

10代前半頃にはもう絵を描き始め、86歳でこの世を去るまでに多くの作品を生み出した。

今回は、そんなヴィジェ=ルブランの生涯とエピソードについて、詳しく調べてみた。

ルブラン夫人の生涯

ルブラン夫人

麦わら帽子を被った自画像、1782年。

ヴィジェ=ルブランは、1755年、画家である父ルイ・ヴィジェの元に生まれた。

父は娘に絵画教育を施し、ヴィジェ=ルブランの周りには、常に大家の画家たちからの強力なアドバイスと、サポート体制があった。

その中には、ガブリエル=フランソワ・ドワイアンや、ジャン=バティスト・グルーズクロード・ジョセフ・ヴェルネなどの名だたる画家たちがいる。

そのように恵まれた環境で育ったヴィジェ=ルブランは、10代前半頃には、すでに職業画家として活躍していた。
主に依頼主の元に出向き、肖像画を描いていたようである。

1776年、21歳の時に画商であり自らも画家として活動する、ジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚した。

この頃、マリー・アントワネットの肖像画を描くためにヴェルサイユ宮殿に招かれると、その素晴らしい筆さばきで、マリー・アントワネットの心をしっかり掴んでしまった。

マリー・アントワネットはヴィジェ=ルブランを重宝し、自身の肖像画はもちろんのこと、アントワネットの子供たちや王族、その家族の肖像画を数多く依頼した。

ルブラン夫人

モスリンのシュミーズ・ドレスを着た王妃マリー・アントワネット。1783年

マリー・アントワネットとヴィジェ=ルブランは強い友情関係で結ばれ、その後ヴィジェ=ルブランがフランスの王立絵画彫刻アカデミーに入会をする際には、アントワネットの強力な後押しを得たというエピソードが残っている。

やがてフランス革命が起こると、ヴィジェ=ルブランはフランスから亡命し、イタリアやオーストリア、ロシアなどで画家として働いたという。
特にローマでは作品が高く評価されたり、ロシアでは当時の女帝エカチェリーナ2世の肖像画を手がけたという。

ポーランド王、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキの肖像、1797年。ヴィジェ=ルブランは、ヨーロッパ諸国を転々としながら、王族・貴族との交流を深めていった

そして1802年、再びフランスに戻ったヴィジェ=ルブランは、皇帝ナポレオンの妹の肖像画を描いた。

しかし、ナポレオンとは折り合いが悪く、その後はスイスのジュネーブにてジュネーブ芸術促進協会の名誉会員として活動を続けた。

だが、ナポレオンが斃れ、フランスが王政復古を果たすと、ルイ18世には手厚く迎えられ、再びフランスへと帰国した。

フランス革命から王政復古まで、激動の時代を生き抜きながらも、絵を描き続け、その作品は高く評価されている。

ヴィジェ=ルブランの画家としての人生は、順風満帆といえるが、実は家庭運には恵まれなかったと言われている。

夫であるルブラン氏は賭博好きで、常に金銭問題を抱えており、また夫との間に生まれた一人娘・ジュリーも、長じて素行が悪くなり、温かな家庭を築き上げることは出来なかったようだ。

ただ、ヴィジェ=ルブランは女流画家としてはもっとも成功をおさめた人物で、彼女の作品は現在でも、欧米の主要な美術館で観覧することができる。

ヴィジェ=ルブラン夫人と娘ジュリー

ルブラン夫人

《ヴィジェ=ルブラン夫人と娘ジュリー》は、1786年頃に製作された、ヴィジェ=ルブランの絵画である。

上の作品は白いドレスを着たヴィジェ=ルブランが、娘のジュリーを抱きかかえている「母娘の絵」であるが、実はこの作品は、大きな物議を醸すことになる。

絵の中のヴィジェ=ルブランは、歯を見せて笑っている。

歯を見せて笑う表情は、当時は風俗画にのみ見られる表現方法で、ヴィジェ=ルブランが普段描いているような西洋絵画の技法としては、タブー視されるものであった。

だが、ヴィジェ=ルブランは慣習に囚われることを嫌い、その生涯の中で、新しい画法をどんどん開発していったという。

マリー・アントワネットと子供たち

マリー・アントワネットと子供たち

ヴィジェ=ルブランが各国の王族や貴族に人気のあった理由として、「実物よりもほんの少しだけ美しく書く」という画法が挙げられている。

王族の肖像画、というのは、当時の市民階級への重要なアプローチ方法のひとつであった。

1787年に製作された《マリー・アントワネットと子供たち》も、その意図をもって描かれた絵画のひとつである。

当時、「首飾り事件」によって世論から厳しい批判を浴びていたマリー・アントワネットだが、アントワネットに気に入られ、手厚い保護を受けていたヴィジェ=ルブランは、彼女のイメージ回復を図る。

王妃アントワネットのイメージを良くするため、王妃の周りに子供たちを配置し、慈愛に満ちた母親像という姿を演出したものの、世論があまりにも批判的であったため、発表を見送ったという。

この作品はフランス革命の勃発する2年前に描かれ、その後アントワネットは1793年に処刑されている。

現在でもフランスのヴェルサイユ美術館には、この《マリー・アントワネットと子供たち》が所蔵されている。

 

アバター

アオノハナ

投稿者の記事一覧

歴史小説が好きで、月に数冊読んでおります。
日本史、アジア史、西洋史問わず愛読しております。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 中世ヨーロッパの信じられない育児方法 「布で巻き固める、酒で寝か…
  2. 唐の音楽文化について調べてみた【音楽好きだった玄宗】
  3. ラスプーチンの怪奇な能力について調べてみた【ロシアの怪僧】
  4. ボウディッカ【ケルト人の自由と誇りを求めローマ帝国に立ち向かった…
  5. 【英国史】カトリックの姫君が、プロテスタントの王に嫁いでしまった…
  6. アステカ帝国滅亡の元凶~ 裏切りの悪女・マリンチェとは
  7. 【若く美しいカリスマ皇帝が豹変】 狂気に取り憑かれたカリギュラの…
  8. 【ナチズムに反旗を翻した芸術家】 ハンス・ベルメールとは

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

戒律か、母の命か…『前賢故実』に名を残した“名もなき英雄”僧某(ナニガシ)のエピソード

よく「歴史に名を刻む」などと言いますが、いくら名ばかり刻んだところで中身がともなわなければ空しいもの…

結果は意外にも「引き分け」薩英戦争について調べてみた

幕末という時代は、これまでの幕府と藩という関係のみならず、海外の勢力との関わりも無視できない時代だっ…

「親に売られて吉原に」逃げようとした遊女に課せられた残酷な罰とは

燃え盛る炎から逃げ惑う人々、市中に響く半鐘の音という場面から始まったNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重…

【土星の六角形の謎】研究者のシミュレーションが示した新たな答えとは

土星は、太陽系の中で最も特徴的な天体の一つで、その美しいリングがよく知られている。しかし、その外見だ…

条約に見る北方領土・プーチン外交でロシアの勝利か?

北方領土問題2018年11月、ここへ来てにわかに慌ただしい動き・報道が行われるようになっ…

アーカイブ

PAGE TOP