アウシュビッツでの生体実験
ヨーゼフメンゲレ は、悪名高きかのアウシュビッツ強制収容所において「死の天使」の異名をとった狂気の医師です。
親衛隊大尉でもあったメンゲレは1943年にアウシュビッツに配属されると、そこで専属の医官を務めて数々の残忍な生体実験を行いました。
メンゲレは双生児に対して、遺伝情報に人種間の優劣などの謎を解き明かす鍵があるのではないかと考え、並々ならぬ執着をよせていました。
そのため、アウシュビッツ強制収容所に送られてくる囚人たちの中から双生児を選び出しては無意味な外科手術を施しました。
その数は約3,000名以上にも上り、内約2,800名が死亡したとされています。
東部戦線にも従軍
メンゲレは、1911年にドイツのギュンツブルク地方で実業家の裕福な家庭に生まれました。
以後医学の道を歩んだメンゲレは大学では人類学と遺伝学を修め、ヨーロッパ中に名を知られた遺伝学の権威・フェアシュアー博士の下に学びました。
このフェアシュアーがナチスの人種理論の熱狂的な信奉者であったことから、メンゲレも大きな影響を受けたものと考えられます。
メンゲレは1937年にナチスへ入党、翌年には親衛隊に入隊しました。
1940年には武装親衛隊に志願して、軍医として東部戦線の前線勤務をしています。
しかし1942年に負傷を負ったことから、翌1943年5月にアウシュビッツ強制収容所に配置転換されて、そこで生体実験を行うことになりました。
メンゲレは先の双生児への生体実験以外にも、アウシュビッツの専属医官として収容所に送られてくる囚人たちを寄り分ける役割を担い、多くの囚人たちをガス室へと送りました。
南米への逃亡
アウシュビッツ強制収容所にソ連軍が近づいた1945年1月、ナチスは証拠隠滅のためメンゲレが使用していた施設を爆破しました。
そこにあった様々な記録も処分され、メンゲレ自身も逃亡しました。
連合軍はメンゲレを拘束すべく指名手配しましたが、4年に渡って潜伏を続けたメンゲレはスイスからイタリアへと逃れ、そこから南米のアルゼンチンに逃げ延びました。
西ドイツ当局とイスラエルのモサドなどの追跡を受けながらも、メンゲレはドイツ本国の親類の援助を受けて南米において事業家としても成功を治め、1979年2月にブラジルで心臓発作で死亡するまで逃げ続けました。
因みにメンゲレの師であるフェアシュアーも罪を問われることなく、ミュンスター大学の遺伝学の教授として1969年に死亡するまで教鞭を取りました。
不気味な伝説
ブラジルの奥地にあるカンディド・ゴドイという集落では、ナチス・ドイツが唱えたアーリア人種の特質、金髪・碧眼の双生児が通常の10倍もの割合で誕生したと報告されています。
この集落は1960年代にメンゲレに似た人物が医師として訪れて、薬を処方したという不気味な伝説が囁かれました。
但し医学的には近親婚が多い小さな集落において、双生児が多数生まれる例は他にも報告されていること、この集落での高い双生児出産は1990年代まで継続していたことなどから、あくまで噂の域をでないものと考えられています。
ナチズムと医師
メンゲレが手を染めたナチス・ドイツのアーリア人種の創造という積極手法と呼応して、不要と見做された人間への「断種」や身障者・精神疾患患者に対する政策は「T4作戦」と呼称され、1939年から中止される1941年までの間に、凡そ7万人とも言われる人たちが安楽死させられたと言われています。
驚くべきことにナチス統治下とは言え、この時代、約半数に上る医師がナチ党員であったと言われています。
よって「T4作戦」に対する一般人からの異議は多数あったものの、医師からの抗議はたった1件しかありませんでした。
医師としての良心よりもむしろ、劣悪な遺伝子を排除するという生物学的な淘汰を医師自らが当然のように考えていた状況だったのです。
参考文献 : ヨーゼフ・メンゲレの逃亡
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