プロイセン軍人 クラウゼビッツ
戦争論 は、プロイセン(北部ドイツ)の軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツの著作で、軍事における戦術から戦略に至るまでを体系化した、近代戦の基礎となる概念を説いた書として知られています。
「戦争論」はクラウゼヴィッツ1816年から1830年にかけてまとめたものですが、現在においても世界各国の軍や各種の組織においてテキストとして用いられています。
クラウゼヴィッツは、当時ヨーロッパを席巻したナポレオン軍との実際の戦いにおける戦訓を基にして、この書を著したと伝えられています。
この書においては、戦争における物理的な力やその在り方を決定するものとして「政治」が定義されています。
ナポレオン戦争が生んだ「戦争論」
クラウゼヴィッツの「戦争論」ではナポレオン軍との戦いを通して劇的に変化した「戦争」そものもを論じています。
ナポレオン以前の「戦争」とは、実は王侯・貴族たちが報酬を与えて雇用していた「傭兵」によるものが大半でした。
これに対しナポレオン軍は国民を兵士として徴収し、戦いを国を挙げた総動員で行うものへと変化させていました。
クラウゼヴィッツはこのパラダイムシフトの狭間にあり、戦争が政治の在り方によって変化したことに気づいたのです。
その意味では、ヨーロッパで猛威を振るったナポレオン軍から生み出されたものが「戦争論」であったとも言えます。
プロイセンの改革
ナポレオンが率いたフランス軍の強さの源泉を、クラウゼヴィッツやその師にあたるシャルンホルストは以下の様に考察しました。
先ず徴兵制度による大規模な兵員数の確保、続いて祖国フランスを守るために率先して戦う兵士の士気の高さ、多数の部隊を纏める軍の編成、そして最後がナポレオンの軍事的才能でした。
これらを備えたフランス軍に勝利するには、その強みを上回るか、もしくは自軍も同様な状態にする必要があると考えられたのでした。
そこでクラウゼヴィッツらプロイセンが取った対応は、徴兵制の導入、師団制度の採用、作戦参謀の育成、貴族以外の指揮官への登用、政治制度・教育制度の改革、農奴解放政策の実施、祖国への忠誠の育成でした。
最後の3点は直接的に軍に関わる内容というよりも、国の政治方針に関わるものとなっていました。
「戦争論」の実践
クラウゼヴィッツの「戦争論」が今日でも評価されているのは、その理論だけでなく実際にナポレオンのフランス軍を破る戦果を挙げたことも、大きな要因と考えられています。
その一つ目の策が、包囲による封じ込め作戦でした。
これはナポレオン軍が得意とした各個撃破を行わせないようにしたもので、1813年の戦いにおいて実践されました。
プロイセンの部隊はナポレオン軍による各個撃破に合わないように、3方向からの包囲網を徐々に縮めてナポレオン軍を包囲し、1点突破をさせない状況を造りました。
また、ナポレオン軍がそれまで良く用いていた戦法に側面攻撃がありました。
これは正面の一部の部隊に敵を引き付けて、その隙に他の部隊が敵の側面、もしくは背後へと回り込んで壊滅させるという戦法でした。
ナポレオンの最期の戦いとなったワーテルローの戦いでは、プロイセン軍は側面攻撃に晒された部隊をすぐさま撤退させて挟撃される事を避け、見事にナポレオン軍に勝利を収めました。
クラウゼヴィッツの死後に刊行
クラウゼヴィッツは戦争を「政治の継続」という観点から捉えました。
戦争とは政治の延長線上にあるものだとするこの考え方は、近代の戦争の本質に対する重要な示唆を含み、それまで戦術的な捉え方が主流だった中に哲学的な視点を取り入れたとものとなりました。
今日でもこうして知られている「戦争論」ですが、実はクラウゼヴィッツの死後の1832年に刊行されたものであり、更にその刊行から20年程はほとんど注目を集める事もなかった不遇の書でした。
因みに日本に「戦争論」が伝わった時期は定かではありませんが、一般敵に軍人たちの間で知られるようになったきっかけは、軍医であった森鴎外の功績と伝えられています。
参考文献 : 戦争論
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