超歴史大作
「エイリアン」「グラディエーター」「ブレードランナー」などを手掛けた巨匠リドリー・スコット監督の下、「ジョーカー」にてアカデミー主演男優賞を受賞したホアキン・フェニックスを主演とした映画「ナポレオン」が、2023年12月1日に日本で公開されます。
今回は映画の公開に合わせて「革命の申し子」と称されるナポレオンの幼き日から、表舞台に登場するまでの過程にスポットを当てていきます。映画の予習として役立ててもらえれば幸いです。
果たして若き日の「コルシカの怪物」はどのような人生を歩んでいたのでしょうか?
ナポレオン、その生い立ち
ナポレオン・ボナパルトは1769年8月15日、イタリア半島の西に位置するフランス領の島コルシカ島アジャクシオにおいて、父・カルロ・マリア・ブナパルテと母・マリア・レティツィア・ラモリーノの間に、12人の子どもの4番目の子として誕生します。
コルシカ島は13世紀以来ジェノヴァ共和国領であり、島の住民の多くはイタリア系です。ナポレオンの先祖も、イタリアを起源とする血統貴族がコルシカ島に移り住んだことが始まりでした。
また、コルシカ島は独立自尊の気風が漂う島国であり、1729年にジェノヴァ共和国に対しての農民反乱を契機に独立運動を続けていたため、18世紀中ごろには半独立国家のような形態を取っていました。
しかし、1768年のヴェルサイユ条約で財政難に陥っていたジェノヴァ共和国は、借金のかたとしてコルシカ島の領有権をフランスに譲渡したため、「勝手にフランスに自国を売却された」と知ったコルシカ島民たちは激怒し、フランスに宣戦布告し戦いを挑みます。
ナポレオンの父・カルロと母・レティツィアもコルシカ軍に身を投じ、フランス軍を相手に戦いを繰り広げました。このときレティツィアはナポレオンを宿した身でありながら、軍と行動を共にしていました。
ナポレオンは生まれる前から銃声と軍靴の音を聞いて、母親の胎内で育ったのです。
孤独な少年時代
ナポレオンが誕生して3ヶ月後の1769年11月、コルシカ島はフランス相手に善戦しますが、フランスの圧倒的な戦力の前にやむなく降伏します。
反乱の最高指導者であったパスカル・パオリもイギリスへ亡命してしまったため、コルシカ島住民はフランス国民となることを受け入れざるを得なくなりました。
その後、フランスはコルシカ島の親仏派を優遇する政策を取ったため、ナポレオンの父・カルロもフランス側に転向し、コルシカ島総督のマルブフと個人的な親交を築くと、フランス貴族としての資格とフランス国籍の取得を認められることになります。
カルロは幼い多くの子供たちを養育してくために、もはやコルシカ独立のプライドを捨て、生活のために奔走するしかなかったのです。
こうしてカルロの働きかけのおかげで、10歳になったナポレオンはブリエンヌ陸軍幼年学校の入学を国費で許可され、フランス本土へと渡ります。
幼年学校に入学したナポレオンは理工系科目が得意であり、特に数学においては抜群の成績を修めます。しかし、もともとコルシカ人である彼はフランス語が上手く話せなかったため、学校内ではいじめの対象となりました。
「ナポレオン・ボナパルト」という名前も後にフランス風に改名した名前であり、当初は「ナポリオーネ・ブオナパルテ」と名乗っていたので、クラスメイトたちからは「パイオネ(藁くずの鼻)」と散々にからかわれました。彼は孤立し、一人で黙々と本を読んで過ごす日々が続きます。
貧相な体格で田舎訛りの貧乏貴族出身のナポレオンにとって、幼年時代は孤独で辛いものでした。
しかし、中にはこんな逸話があります。ある冬の日に大雪が降ったため、学校の校庭で雪合戦をすることになったのですが、ナポレオンの指揮するチームは連戦連勝したというのです。
統率者としての才能は、すでにこの頃から片鱗を覗かせていたようです。
パリ陸軍士官学校へ
ブリエンヌ幼年学校に5年間在籍したナポレオンは、1784年にパリの陸軍士官学校へと進学します。
このとき、ほとんどの者は戦場の花形である騎兵科への入学を希望しますが、ナポレオンは砲兵科へと進みました。騎兵科は任官する際に高額の任官料を払わなければならないため、貧乏貴族のナポレオンでは困難な話だったのです。
しかし、ナポレオンは「今後、大砲の運用が戦場を大きく左右する」と考えており、自分の得意な数学を砲兵術に大いに活用できることを確信していました。
こうして砲兵科に入学したナポレオンですが、その学習速度は凄まじく、通常で4年、最低でも2年はかかると言われる学習課程を僅か11カ月で修了し卒業。翌年には正式に砲兵少尉として任官されます。
この時のナポレオンの卒業成績は58番目中42番目と決して高い順位ではありませんでしたが、11カ月で卒業していることを考えると低いということはありません。また、この11カ月で卒業という記録は「パリ陸軍士官学校の最短記録」と言われています。
1785年11月、16歳になったナポレオンは南フランスのヴァランスに赴任し、フランス砲兵少尉として勤務するのですが、ほとんどヴァランスには滞在しておらず、故郷のコルシカへと何度も帰省していました。
この頃のナポレオンにとって祖国はフランスではなくコルシカ島であり、ナポレオンは「コルシカ島独立のため、その才能を発揮したい」と考えていたのです。
フランス革命とナポレオン
ナポレオンの思想に大きな影響を与えた啓蒙思想家・ジャン・ジャック・ルソーは、著書である『社会契約論』の中で以下のように書き留めています。
この島(コルシカ島)は、いつか世界を驚かせることがあるかもしれない…。
敬愛していたルソーの言葉を信じ、ナポレオンはコルシカ島の政治クラブに所属し、コルシカ島独立のチャンスを待ちます。
そんな中、ナポレオンが20歳を迎えた歳である1789年、フランス本国パリにて民衆たちがバスティーユ牢獄を襲撃するという大事件が勃発。
世に名高い「フランス革命」が幕を開けます。
1793年にはフランス国王・ルイ16世が処刑され、さらに革命の波及を恐れたヨーロッパ諸国はイギリスを中心とした対仏大同盟を結成。国内の政治不安定も重なり、フランスは混乱の渦に陥ります。
一方、この革命をコルシカ島独立の好機と見たナポレオンは、コルシカ島アジャクシオ義勇軍中佐として活動を開始し、国内の反革命派との戦いに身を投じます。ナポレオンにとって初めての実戦でした。
この戦いの中「フランス革命政府に協力して、コルシカ島を独立させるべきだ」と、力説するナポレオンでしたが、残念ながらその考えはコルシカの有力者たちに届くことはありませんでした。
この時、かつてコルシカ独立のため最高指導者として戦っていたパスカル・パオリは、亡命先のイギリスから帰国していましたが、彼は国王を処刑したこの革命を嫌悪しており、あまり良い印象を持っていなかったのです。
また、パオリの腹心でありボナパルト家の縁戚であるポッツォ・ディ・ボルゴはイギリスとの協力路線を進言していたため、ますますパオリはナポレオンら革命派を遠ざけるようになります。
パオリの親英国路線に激怒したナポレオンはボナパルト家総出でこれを批判し、フランス国民公会にこれを告発しますが、逆にパオリを支持する一派によりコルシカ島から追放されてしまいました。
トゥーロン攻囲戦と若き英雄の誕生
もはやコルシカ人として生きることが不可能となったナポレオンとボナパルト一家は、泣く泣くフランスのマルセイユへと落ち延びるしかありませんでした。
しかし、この日を境にナポレオンは「コルシカ人」としてではなく、「フランス人」として、そして「革命派」として生きることを決意し、再びヴァランスの勤務先へと舞い戻ります。
一方で1792年4月以来、フランス革命政府(国民公会)はヨーロッパ諸国を相手に宣戦を布告しながらも、国内は穏健革命派(ジロンド派)と急進革命派(ジャコバン派)とで対立しており、フランスは国内にも火種を抱えるという深刻な状況に直面していました。
そのような状況の1793年6月、南フランスの港湾都市トゥーロンにて王党派を支持する団体が反乱を起こし、イギリス・スペイン連合艦隊に援軍を求めるという事件が発生。この結果、トゥーロンは実質的にイギリス軍が占拠することとなってしまいます。
その年の9月、フランス国民公会はジョン・フランソワ・カルトー将軍にトゥーロンの奪回を厳命。カルトー率いる国民公会軍はトゥーロンを包囲しました。
しかし、カルトー軍の砲兵隊長ドンマルタン少佐が重症を負ってしまったため、敵軍に対して有効な砲撃が出来なくなりました。戦況を重く見たロベスピエールの弟である議員オーギュスタンは、若き砲兵大尉ナポレオン・ボナパルトをカルトーの新しい砲兵司令官に抜擢し、事態の打開を狙います。
カルトーの下に駆け付けたナポレオンは僅か24歳の若さで砲兵大佐に昇進。状況を分析して直ちに包囲攻撃を中止し、トゥーロン岬にあるレギエット要塞とバラギエの要塞へ「大砲での一点集中攻撃」を進言します。
しかし、カルトーはナポレオンを生意気な若造と見くびり進言を却下してしまいました。そのため戦況は悪化し、ますます国民軍は被害を拡大させてしまいます。10月下旬、ナポレオンは国民公会に手紙を送り、上官らを「阿呆の群れ」と批判し、カルトーの更迭を要求しました。
その後11月、国民公会はついにカルトーを解任し、攻囲軍の指揮権を元医者であるドッペに託しますが、やはり攻撃は失敗に終わったため歴戦の将軍であるデュゴミエ将軍を派遣します。
ここにおいてようやくナポレオンは上官に恵まれ、作戦の実質的な支配権を確保して計画を実行。12月には攻撃が開始され、ナポレオン自ら陣頭に立ち攻撃を指揮します。
この時、ナポレオンは敵の攻撃を受けて股に負傷するも、フランス軍は要塞の攻略に成功し、港に陣取るイギリス・スペイン艦隊を要塞から砲撃したため、両艦隊は港から撤退したのです。
これによりフランス軍はトゥーロンを占領。ナポレオンはこの功績によって准将へと昇格し、一躍革命軍をを支える若き英雄へと出世します。
また、ナポレオンがこの時受けた傷は「生涯に一度だけの負傷」であったと言われています。
葡萄月(ヴァンデミエール)将軍
トゥーロンの戦いにおいて一躍「若き英雄」と祭り挙げられたナポレオンでしたが、すんなりと出世街道を邁進したわけではありませんでした。
1794年、ナポレオンは引き続き南フランス方面の砲兵司令官として赴任しましたが、その年の7月に革命政府内にて「テルミドールのクーデター」が発生し、首班であるロベスピエールが処刑されてしまいます。
一方、ロベスピエールの弟・オーギュスタンと深い関係があったと容疑を掛けられたナポレオンも、突然逮捕されて収監されました。この際、パリの逮捕者は僅か三日間で100名近くが処刑されるほど恐ろしいものでしたが、幸いパリから離れた場所にいたナポレオンは短期拘留だけで済みました。
しかし、結果としてナポレオンは軍務を解かれ将軍職を解任。さらに砲兵ではなく歩兵部隊を指揮するよう命じられたため、この配置転換と処遇に激怒したナポレオンは転属を拒否し、予備役へと回されました。
また、予備役となったことで給料が大いに引き下げられたため、ボナパルト家を支えるナポレオンは経済的に困窮しました。
時の人から、一気に貧乏な一兵卒へと転落したナポレオンでしたが、天はまだこの若き英雄を見捨ててはいませんでした。
1795年10月、テルミドールのクーデターにて国民政府が混乱している隙を突き、パリの王党派が反乱を起こしたのです。
「ヴァンデミエールの反乱」と呼ばれるこの王党派の蜂起は、約2万近くの民衆と兵士が参加しており、これを知ったテルミドール派の国民政府総裁らは恐怖に慄きます。
この反乱に対してテルミドールのクーデターの首謀者であり、総裁の一人であるポール・バラスが司令官に当たりますが、バラスは軍を指揮する自信がなかったため、かつてトゥーロンの戦いにて活躍したナポレオンを急遽呼び出しました。
バラスの要請を受けたナポレオンは副司令官として起用されると、直ちに5千の砲兵部隊を率いて反乱軍の鎮圧に出撃。
数に勝る王党派の軍勢に対し、ナポレオンはパリの中心部であるサントレノ通りにて、殺傷能力の高い「ぶどう弾」と呼ばれる散弾を使用し、僅か1日にしてこの反乱を鎮圧したのです。
大胆な戦法と、1日で反乱を鎮圧したナポレオンに国民政府は驚愕し、革命暦の葡萄月(ヴァンデミエール)にちなんでナポレオンを「ヴァンデミエール将軍」ともてはやしました。
これを機にナポレオンは貧乏一兵卒から第一線へと復職し、中将へと昇進。さらに国内軍司令官に任命されます。
この頃からナポレオンは、名をイタリア風の「ナポリオーネ・ブオナパルテ」からフランス風の「ナポレオン・ボナパルト」へと正式に変更し、ナポレオン伝説は幕を開けることとなるのです。
おわりに
その後、ナポレオンは運命の女性・ジョゼフィーヌとの出会い、エジプト遠征、皇帝就任、そして帝国の崩壊という、51年の短い生涯ながらも激動の人生を歩んでいくこととなります。
映画において、彼の生涯がどこまで描かれているのはまだ分かりませんが、この記事を読んでナポレオンに興味を持った方は、是非劇場に足を運んでみてください。
リドリー・スコット監督作品「ナポレオン」は、2023年12月1日(金曜日)に日本の全国の映画館にて公開予定です!
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