革命と虐殺
フランス革命と言えば「自由」「平等」「友愛」をスローガンとした民衆と、貴族や特権階級者たちとの武力衝突との印象が強いですが、実際は複雑な対立構造となっており、革命政治を嫌って旧来の王政を支持する民衆も数多くいました。
今回紹介する「ナントの溺死刑」は、そんな反革命を支持する民衆を虐殺するべく、恐怖政治に走った革命政府が行った恐ろしい処刑方法です。
また、革命軍には「地獄部隊」と呼ばれる悪魔のような部隊が存在していました。
今回は、革命によって誕生した恐怖政治による「フランス革命の闇」の部分をご紹介していきたいと思います。
フランス革命と迷走する国内
1789年7月14日、日々悪化する財政と飢餓の恐怖に襲われたパリの民衆の怒りは頂点に達し、数千とも数万ともいわれる人々は廃兵院の武器庫を襲うと一斉蜂起に及び、バスティーユ牢獄を襲撃。ついにフランス革命が勃発します。
革命はフランス国内に一気に波及し、国内は大混乱に陥りました。
その対策として、国王であるルイ16世は「封建的特権の廃止宣言」や「人権宣言」を行い、事態の平穏化を試みました。
しかし「※ヴァレンヌ逃亡事件」の発覚により、民衆の王家に対する不信は決定的なものとなってしまいます。(※ヴァレンヌ逃亡事件とは、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの一家がオーストリアへの逃亡を図った事件)
その後、議会を掌握していた国民公会(革命政府)は、革命を維持するべく王妃・マリーアントワネットの祖国であるオーストリアに宣戦を布告し、対外戦争を開始。さらに1793年に国民公会はルイ16世を処刑したため、脅威を感じたヨーロッパ諸国は対仏大同盟を結成し、打倒フランスに動き出します。
同盟を結んだヨーロッパ諸国に対し、革命軍は連戦連敗を重ねたため、フランス経済は増々悪化の一途を辿ります。そのような状況の中、国民公会は対外戦争に必要な兵士をさらに徴兵すべく「30万人募兵令」と称す強制募兵を実施する法律を発令しました。
しかし、度重なるパリの国民公会の要求に対し、フランスの各地方で民衆の反乱が勃発し、国民公会は内外に危機を抱えることになったのです。
ヴァンデの反乱
革命政府の失策により、マルセイユ、リヨンなどの各都市で反乱の火の手が次々と挙がる中、フランス西部・ヴァンデ地方の反乱は特に規模が大きく、民衆は軍事経験の豊富な貴族たちを指導者に立て、反乱軍を組織化し「カトリック王党軍」を結成しました。
このころ、国民公会の首班でもあったロベスピエールは国内の安定化に奔走しますが、もはや議会の革命急進派の勢いを止めることは不可能な域に達していました。
また、革命軍の中心的存在であったデュムリエ将軍が裏切ったことから、ロベスピエール自身も「革命政府に反抗する者は消滅させるべきだ」と考えるようになります。
デュムリエ将軍の裏切りをきっかけに、ロベスピエールは「危機に直面した国家を救うため」と称して、緊急措置の採用を国民公会に提言し、裏切り者を炙り出すべく革命裁判所を設置しました。
これ以降、ロベスピエールは反対派をギロチン台送りとし、恐怖政治で議会を動かしていくようになっていきます。
一方、ヴァンデで起こった反乱は革命派の都市であるナントに攻撃を開始しました。しかし、ナントの抵抗は激しく、反乱軍の総司令官であるジャック・カトリノーが戦死してしまいました。
総司令官を失ったヴァンデのカトリック王党軍はこれを機に勢いを失ってしまい、逆に国民公会軍の反撃を受けるようになります。
また、これを好機と見た国民公会は1793年8月に「ヴァンデの絶滅」を掲げた法令を制定し、革命政府軍に以下のように告げたのです。
戦争に関わった可能性のある者は、老若男女を問わず、容赦なく殲滅せよ
ナントの溺死刑 共和国の結婚
「ヴァンデの絶滅」を宣言した国民公会はヴァンデ地方を包囲する形で軍を差し向け、行く先々の森林、畑、家、教会を荒らし、住民たちを無差別に殺害したのです。
10月にはカトリック王党軍の本拠地であるショレが陥落したため、10万近い兵士と民衆は英仏海峡を渡りイギリスへ脱出しようとしますが、革命軍に行く手を遮られたため、行き場を失います。
結局、脱出も不可能と悟った王党軍兵士と民衆らは故郷に帰ろうとロワール川を渡ろうとしますが、途中に立ち寄ったサヴネの町にて革命軍と遭遇し、壊滅してしまいました。
そして、捕虜となった民衆らはナントの町に送られると、国民公会より派遣された議員ジャン=バティスト・カリエの手によって革命裁判に掛けられました。
この時、カリエは革命への宣誓を拒否したカトリックの非宣誓司祭、反乱軍の捕虜、女子供らが混じった民衆に死刑を言い渡し、ロワール川にて恐ろしい刑を執行したのです。
ロワール川に集められた者たちは、年齢性別を問わず衣服を剝ぎ取られると「給水塔」と呼ばれる穴の開いた船に詰め込まれ、なんと全員溺死させられたのです。
そのうち、この全裸の男女を縄で括りつけてから溺死させる処刑方法は「共和国の結婚」と呼ばれ、流行り出しました。
この無惨な溺死刑の様子については、以下のように書かれています。
ナントに設置された革命裁判所を司るカリエは悪魔だった。彼は、かの野蛮で残虐な「共和国の結婚」を発明した人物として万国にその名が知られていた。老人と老女か若い男性と女性の組み合わせの二人が、すべての衣服を奪い取られ、群衆のまえでいっしょに縛り上げられ、三十分あるいはもっと、そのままボートの上でさらし者にされたあげく、川へと投げ込まれるのである。
純真な若い乙女が怪物たちの眼前で衣服を解かれるのだが、この残虐の極みのような行いにさらなる恐怖を抱かせることには、女たちは若い男と結びあわされ、共にサーベルで斬り伏せられるか川に投げ込まれるのだ。こういった類の殺人行為が「共和国の結婚」と呼ばれていた。
最終的にカリエは、1793年12月末から1794年2月末までに約2600人もの捕虜を殺害したと言われますが、回数や犠牲者の詳しい人数は分かっていません。
この溺死刑はカリエにより公安委員会に報告されていましたが、国民公会はこの行為を黙認していました。
ヴァンデの地獄部隊
ナントにて処刑が行われる一方で、国民公会はさらにヴァンデの王党軍残党の殲滅に力を入れるようになります。
ヴァンデ殲滅の司令官に任じられたルイ・マリー・テュロー将軍は、12の殲滅部隊を細かく区分して計画を立てました。
この計画は「反乱に参加した全てのならず者たちを退治し、中立的な住民や愛国者たちを避難させる」と言ったものでしたが、実際は穀物や家畜を強制的に接収し、村や森に火をつけるよう命じた物でした。
テュロー将軍は最終的にヴァンデを「国家の墓地」にしようとしていたのです。
こうしてテュロー将軍率いる軍は、1794年1月から5月にかけてヴァンデの王党派が匿われている地域に進軍するのですが、テュロー将軍は指揮下の部隊に「生き物は皆殺しにしろ」などと指示し、各地方で無差別虐殺を行ったのです。
この作戦の一部は多くの場合、年齢・性別・政治的意見に関係なく、放火、婦女暴行、拷問、略奪や住民の虐殺に至り、最悪の人権侵害に直結した。また妊婦は圧搾機で押しつぶされ、新生児は銃剣で串刺しにされた。か弱い女性と子どもたちは生きながら切り刻まれるか、生きたまま火のおこされたパン焼きのかまどに投げ込まれた。
テュロー将軍率いるこの部隊によって何万というヴァンデの民衆が虐殺の憂目に遭ったのです。
この部隊は、その凄まじい行為から「地獄部隊」と名付けられ、後々まで深い怨恨を残すこととなりました。
その後
「革命に歯向かうものは全て消滅させる」と掲げた革命政府でしたが、1794年7月に「テルミドールのクーデター」が勃発し、首班のロベスピエールが死刑となったため、猛威を奮った恐怖政治は一旦は落ち着きを見せました。
ナントにて溺死刑を行ったカリエも、クーデター後の派閥抗争に敗れ失脚しました。その後、ナントでの悪行を批判され、全ての罪を擦り付けられる形で死刑となったのです。
地獄部隊が繰り出されたヴァンデ方面の鎮圧も、新たに派遣されたルイ=ラザール・オッシュ将軍の融和策によって、次第に沈静化するようになります。(※オッシュ将軍はナポレオンのライバルとも噂された人物だが、早世。)
この反乱は、1801年にナポレオン・ボナパルトがローマ教皇と和解し数々の復興政策を行ったことで、ようやく終結に至りました。
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