ヤルタ会談での米国とソ連の駆け引き
第二次世界大戦中の1945年、ヤルタ会談が開催されました。
メインテーマは勝者による世界分割でしたが、会談の雰囲気は重苦しいものでした。
ソ連からの救援要請を米英がことごとく無視したからです。スターリンの資本主義陣営に対する不信感は増すばかりでした。
詳しくは前回の記事「【冷戦はいつから始まった?】 意外にも良好な関係だったアメリカとソ連 「ロシアに美人が多い理由」」でご確認ください。
【冷戦はいつから始まった?】 意外にも良好な関係だったアメリカとソ連 「ロシアに美人が多い理由」
https://kusanomido.com/study/history/western/80638/
この会談を主導したのは、米国のフランクリン・ローズヴェルト大統領で、車いすに乗ったリベラルな思想の持ち主でした。
最大の理由は、ソ連の対日参戦を熱望していたからです。
米軍が日本本土に接近するに連れて、アメリカの死傷者が増え続けていました。
アメリカは戦争大国である一方、自国の戦死者には極めて敏感です。その証拠として余談ですが、現在の米国はドローン兵器の開発・量産に大きなエネルギーを注いでいます。
これ以上の死傷者増を避けるため、ローズヴェルト大統領はソ連の対日参戦を切望しました。
しかしながら、なかなか無理がある話です。
第二次大戦中、米英がソ連の要請に応えなかった事実を考えると、今になってソ連に協力を求めるのは都合が良すぎます。
さらに「日ソ中立条約」の破棄は、ソ連の国際的信用を失墜させるリスクを孕んでいました。
そこでローズヴェルト大統領は、ソ連に大幅な譲歩を示し、対日参戦を取り付けたのでした。
ローズヴェルト大統領の大幅な譲歩
ヤルタ会談で、ローズヴェルト大統領はソ連に対して大幅な譲歩を示しました。
朝鮮半島については、38度線までソ連軍の南下を認めたのです。また日本の樺太と千島列島の全域をソ連に割譲します。さらに北海道の北半分についても口頭で譲渡を示唆しました。
これは単に対日参戦を引き出したかっただけではなく、戦後の平和維持も考慮したからです。第二次世界大戦中の第二戦線構築の遅れに対するお詫びでもあります。
ローズヴェルト大統領は、戦後も資本主義と共産主義が共存することを願っていました。
しかしローズヴェルト大統領にとって、ヤルタ会談は最後の仕事となってしまいます。
トルーマンの登場で米ソ関係が一変
1945年4月、沖縄上陸成功の知らせを受けた直後、ローズヴェルト大統領は死去しました。そして副大統領だったトルーマンが大統領に昇格しています。
トルーマンは「大戦後、ソ連との対立を避けたい」というローズヴェルトの思いを受け継ぎませんでした。
トルーマンは高卒で大統領に上り詰めた苦労人です。ビジネスで失敗した借金を逃げずに返済するなど、資本主義的な考えを持つ人物でした。
民主党はアメリカの左派政党ですが、その中でもローズヴェルトはさらに左寄りの人物でした。
ローズヴェルトは党内のバランスを取るため、右派のトルーマンを副大統領に起用していました。企業など組織においても、社長(リーダー)の死去によってバランスが崩れることがよくあります。
トルーマンの大統領就任は、ソ連に対する態度を一変させることになったのです。
原爆投下が冷戦の幕開けとなる
トルーマンが大統領に就任した直後に核開発が完成し、トルーマンは強気になります。敗戦濃厚の日本に対する、広島・長崎への原爆投下はソ連に対する脅しでもありました。
ローズヴェルトの死と原爆投下により、資本主義と共産主義の対立が一気に深まっていきます。原爆投下は第二次世界大戦の終わりではなく、冷戦の幕開けだったのです。
チャーチルはファシズムと共産主義の共倒れを狙い、トルーマンは核兵器の実戦使用でソ連を威嚇していきます。
ソ連の資本主義陣営に対する不信感が高まり、ソ連を中心とする共産主義とアメリカを中心とする資本主義の対立構造が決定的となったのです。
チャーチルの誤算
1945年7月、ポツダム会談に赴いたチャーチルは余裕を感じていました。イギリスで行われている総選挙で、自分が圧勝すると予想していたからです。
第二次世界大戦を勝利に導いた男として、国民はチャーチルを歓迎するだろうと考えていました。
ところがチャーチルは、歴史的な大惨敗を喫してしまいます。
会談の最中に、イギリスの首相がチャーチルからアトリーに交代。戦争を終えたイギリス国民は、戦争屋のチャーチルを不要と判断したのです。
落ち込んでいるチャーチルを励ますため、トルーマン大統領はアメリカへの旅行を提案します。
しかし、チャーチルは全く落ち込んでいませんでした。
鉄のカーテン演説
アメリカのフルトンで演説したチャーチルは力強くソ連を批判しました。
「鉄のカーテン」演説と呼ばれています。
チャーチルは「ソ連がバルト海からアドリア海に至る地域に“鉄のカーテン”を下ろし、自由と民主主義を否定している」と批判。さらに「これは文明に対する挑戦である」と主張しました。
大嫌いな共産主義を批判したチャーチルの演説は、共産主義の阻止を正当化し、トルーマン政権をさらに右傾化させます。
上記のような流れによって、冷戦は激化することになったのです。
参考文献:ゆげ塾(2017)『3時間半で国際的常識人になれる ゆげ塾の速修戦後史 欧米編』ディスカヴァー・トゥエンティワン
🇰🇵🇰🇷ヤルタ会談のさも、最大の犠牲者は、朝鮮民族である🇺🇸🇰🇵🇰🇷この事もアメリカによって、自ら引き起こされた事ですが!!🇰🇷🇰🇵🇺🇸