私たちは幼い頃から、人生でたった1人の愛する人と出会い、結ばれ、添い遂げることが恋愛においての幸福なのだと教わってきた。だからこそ結婚には多少の我慢が必要であることも、世間では常識のように語られている。
しかし果たしてそれは、個人の幸福を追求する上では正しいことなのだろうか?「貞節こそ美徳」という考え方を是とする社会によって架せられた、呪いのようなものなのではないだろうか。
イギリスの貴族令嬢ジェーン・エリザベス・ディグビーは、世界で最も愛し愛されることに心血を注ぎ、1800年代当時において女性としての幸福を追求した女性だった。
彼女は歴史に名を残す貴族や王族たちと4度の結婚と数多の恋愛遍歴を重ね、最終的には17歳年下の異国の男性と結婚して、愛し愛される幸福の中で人生を終えた。
今回は自らの信条に従って生き抜いた、ジェーン・ディグビーの愛と冒険に満ちた人生に触れていきたい。
1度目の結婚、不倫、離婚
ジェーン・ディグビーは1807年4月3日、英国海軍提督のヘンリー・ディグビーとその妻ジェーン・コークの娘として、イングランドのノーフォークで生まれた。
父ヘンリーは数々の戦功を立てた人物で、ナポレオン戦争におけるトラファルガーの戦いでは、ホレーショ・ネルソンの指揮下で戦艦アフリカの艦長を務めた人物だった。
さらに母は初代レスター伯トーマス・コークの娘という名門の家柄で、ジェーン・ディグビーはやんごとなき貴族令嬢として育てられた女性だった。
美しく成長したジェーンは17歳の時に、34歳の第2代エレンボロー男爵エドワード・ロウと結婚した。
ジェーンの1度目の結婚は、当時としては珍しくもない親が決めた政略結婚だった。
2人の関係は、初めから義務的で冷めた夫婦関係だった。エドワードとジェーンはお互いに愛人を作り、婚外恋愛を楽しんでいた。
結婚から4年後の1828年には待望の男児が生まれるが、その子は幼くして亡くなってしまう。
その頃、既に自身の従兄のジョージ・アンソンや、オーストリアの貴族で外交官だったフェリックス・シュヴァルツェンベルクと愛人関係を築いていたジェーンだったが、フェリックスとの深い関係がエドワードの知る所となり、ジェーンの懇願により2人は1830年に離婚した。
ルートヴィヒ1世との恋と、2度目の結婚
エドワードとの離婚は、当時イギリス中を騒がす大スキャンダルとなり、ジェーンの父ヘンリーの怒りを買ったジェーンとフェリックスはイギリスにいられなくなった。
フェリックスとジェーンの間には2児が生まれていたが、2番目の子の死をきっかけに2人の関係は終わることとなる。
1人目の子マティルドはフェリックスの妹の養子となり、2人目の子は生後間もないうちに亡くなっていた。
フェリックスと別れミュンヘンに移住したジェーンは、女好きで名を馳せていたバイエルン王ルートヴィヒ1世の目に留まり、その愛人となる。
ルートヴィヒ1世は、美女と芸術をこよなく愛していた。
そんな彼が宮廷画家に命じて描かせたのが、以下のジェーンの肖像画だ。
ジェーンはルートヴィヒ1世の寵愛を得ながらも、名声や権力より「愛」を優先した。
ジェーンはルートヴィヒ1世との関係に並行して、バイエルン貴族のフェンニンゲン男爵と関係を持って1児をもうけ、1833年に2度目の結婚を果たす。
しかしフェンニンゲン男爵との結婚から5年後、ジェーンは2児の母となっていたが、ギリシャの貴族スピリドン・テオドキス伯爵と恋に落ちてしまう。
その後、スピリドンとの関係がフェンニンゲン男爵の知る所となり、男爵とスピリドンは決闘を行った。結果的には男爵が子どもたちを引き取ることを条件にジェーンとの離婚に同意した。
ジェーンとフェニンゲン男爵は、離婚後も生涯友人であり続けたという。
3度目の結婚と、かつての愛人の息子との恋
フェニンゲン男爵との別離後、ジェーンはギリシャ正教に改宗し、1841年にフランスのマルセイユにてスピリドンと結婚式を挙げた。
ジェーン夫妻は1人息子のレオニダスと共にギリシャに移住したが、1846年、6歳になったレオニダスがイタリアの別荘滞在中に事故死してしまう。
息子の死をきっかけに、夫婦関係に陰りが生じ始めていたジェーンとスピリドンは離婚することになってしまった。
そして次にジェーンが射止めたのは、ギリシャ王オソン1世であった。
ギリシャ王オソン1世は、前述したバイエルン王ルートヴィヒ1世と、その正妻テレーゼ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼンとの間に生まれた次男だった。
つまりジェーンは、かつての愛人とその正妻の息子と恋に落ちたわけだ。
しかし多忙なオソン1世との恋は、正妃の嫉妬もあり長続きしなかった。
そしてジェーンが次の恋の相手に選んだのは、オソン1世の副官であったアルバニア人のクリストドゥロス・ハツィペトロス将軍だった。
「山賊将軍」との恋を経て、4度目の結婚へ
ジェーンの恋人となったクリストドゥロスは、将軍という地位にはあったものの自らの部下と共に「山賊」のような生活をしていた。
そして彼に恋したジェーンも、なんとそれに従って山の洞窟で暮らし、女だてらに乗馬や狩猟にも参加した。
しかしクリストドゥロスは生来女癖が悪く、それはジェーンとの交際中も変わらず、ジェーンのメイドにまで手を出すほどだった。呆れたジェーンはクリストドゥロスに三行半を突き付けて、新たな恋を探す旅に出る。
46歳になったジェーンを見初めたのは、中東旅行中に出会ったシーク・ミジュエル・エル・メズラブだった。
ミジュエルは、シリアでも有力なメズラブ地区の若き首長で、ジェーンより17歳も年下だったが、彼は先にいた妻と離縁してまでジェーンに求婚したという。
1854年、ジェーンはイスラムの法律に則ってミジュエルとの結婚を果たす。
ジェーンは美しい金髪を黒く染め、アラブの女性の衣装を身にまとい、アラビア語を話し、一年の内の半分は遊牧民として、もう半分はダマスカスに建てられた宮殿で生活した。
年若いミジュエルは、ジェーンを生涯愛し続けた。
そして結婚から27年後の1881年、ジェーンは74歳の時にダマスカスで、愛と波乱に満ちた生涯を終えた。
ジェーンの亡骸はダマスカスのヨーロッパ人墓地に、彼女の愛馬と共に埋葬された。
パルミラ産のピンク色の石灰岩に、ミジュエル自身が木炭でジェーンの名を書き込み、その字を石工がなぞって掘った物が墓碑とされた。
ミジュエルは最後の最後まで、ジェーンを愛し抜いたのだ。
美しさと聡明さを兼ね備えていたジェーン・ディグビー
ジェーンの恋愛遍歴だけを知れば、「とんでもない節操無しの貴族令嬢だ」と思う人もいるだろう。
確かにジェーンは、どんな困難を乗り越えてでも1人の男性に尽くし続けるという、道徳的な良妻賢母とはまるで異なる人生を送った人物だ。
しかし彼女は権力や財産に流されて数多くの恋愛を重ねたわけではない。彼女が生涯一貫して求めていたのは、心躍るような冒険に満ちた日々と、お互いに愛し愛される唯一無二の夫婦関係だった。
彼女がかつてルートヴィヒ1世に宛てて書いた手紙には、このような言葉が残されている。
「愛し愛されていないと生きていられない。愛し愛されることは息をする空気と同じくらい私には必要なこと。どんなに物質的に恵まれても、愛なしに満たされることはない。」
あらゆる国の男性と恋をしたジェーンは、8か国語を流暢に使いこなし、ミジュエルとの結婚後はさらにアラビア語を使いこなした才女でもあった。
並の人間には真似できない才覚と美貌に加え、生まれながらの気品と家柄を持っていたからこそ、彼女は自分自身の人生における幸福を追求することができたのだ。
「真実の愛の追求」は、並大抵の努力と胆力では成しえない。
ジェーン・ディグビーの人生にまつわる逸話は、どちらかと言えば並かそれ以下の人間である筆者にも決定的事実を教えてくれたようだ。
参考文献
Mary S. Lovell (著)
『A Scandalous Life: The Biography of Jane Digby (Text only) (English Edition)』
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